プロローグ:原罪
嵐の夜だった。
大粒の雨が絶えず窓を叩き、瞬く雷鳴が空を粉々に引き裂く。閉め切った戸窓は強風に軋み、庭中のブリキをガラガラと吹き散らかした。初老の男はしがみ付く様に布団に包(くる)まるが、今夜は全く寝付けそうもなかった。嵐のせいではなかった。それでも彼の不安を煽るかのように、空は喧しくがなり立てた。
居ても立っても居られず男は起き上がり、ぼんやり窓辺を眺める。風に揉まれながら、雨粒が噴水広場の石畳の上で白いさざ波となって這い回るのが見えた。市場ののぼりが横倒しのままパタパタのたうち回ると、やがて広場の縁の植え込みにへばりついた。
せがれが家を飛び出してから、もう一週間近くは過ぎていた。今頃何処でこの嵐を凌いでいるのか、ちゃんと飯は食べているのか、気が気ではなかった。
足音が聞こえた。それはゆっくりとこちらへ向かうようだった。よもやと目を追い遣ると、目元まで隠れる黒くて長いローブを纏った中背の男が何かを抱え、背中を丸めながら歩いていた。彼の長いローブの裾からは、爪先の擦れた馬革のロングブーツが覘いた。
「せがれ!」
間違いない、酷く足癖の悪いせがれには何度靴を駄目にされたことか。初老の男は飛び跳ねるように玄関へ駆け込み、傘も持たずに広場へ飛び出した。散弾銃のような雨に撃ち付けられ、ずぶ濡れの初老は転がり込むようにローブの男の前で立ち止まった。
ぜえぜえと両肩を揺すりながら見上げると、虚ろな表情で固めたせがれがそこに立っていた。見慣れたその顔は、しかしまるで面影のない別人だった。
「せがれ、無事だったか!腹は減っとらんか?ずっと心配してたんだぞ!」
せがれの肩にしがみつき、初老は必死に呼び掛けた。しかしせがれは表情一つ変えず、ただ俯くばかりだった。
「父さん、ごめん。俺はもう、あの人の所へいけない。」
せがれからの第一声は余りにも唐突だった。
「どうして?いったい何があったんだ?」
せがれは口をつぐみ、だんまりと立ち尽くす。彼の口元は微かに震え、何かを言いあぐねているようだった。
「取り返しのつかないことをしてしまった。」
暫く反すうした後、せがれは重く閉ざした口をようやく開いた。
「ハハハ、気にするな。例え盗っ人でも人殺しでも、お前は俺のせがれだ。こんな所では風邪を引くぞ、さぁ中に入れ。」
初老は気さくを装いながらせがれの背中をポンポン叩き、我が家の方へと彼を促した。せがれは相変わらず立ち尽くし、両足から根を張ったように動かなかった。
「これを見ても、そう言ってくれるのかい。」
そう言うとせがれは両腕で大切に抱えたものを肘の高さまで下ろし、ふんわりと柔布に包まったその面をおもむろに引き上げた。
「まさか・・・そんな。」
動揺した初老は言葉をなくし、てんかん発作にでもなったようにその場で崩れてしまった。柔布を抱きかかえ、彼をなだめるようにせがれもその場でしゃがみ込んだ。二人の影を地上に焼き付けながら、雷鳴が瞬く。風はゴオゴオと不気味に唸りを上げ、雨脚は一層強まっていく。
嵐と喧噪の中、眠らずの沈黙が立ち尽くすばかりだった。