作品解説

-No Name / 死者の家-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年3月28日


 本作はマザー・テレサが神の業「死を待つ
人々の家」に触発されて生まれました。「死
を待つ人々の家」はインドのカルカッタにあ
る施設で、そこでマザー・テレサは貧困や病
で死に逝く一人一人の手を握り、それぞれの
仕来たりに沿った葬儀をもって最期を見届け
ました。


 私がそれを引用した所でマザーの偉業を引
き継いだ事にはなりませんし、作品の威厳が
増す事もないでしょう。寧ろその落差が際立
って一層薄っぺらな作品に陥ってしまうかも
知れません。それを敢えて取り上げたのは生
と死、有限と無限、言葉と祈りの間で描く意
味を問い質したいからでした。死を想うこと
で生は輝きを増し、無限に想いを馳せて有限
を知り、それを言葉で、絵筆で捉えようと私
たちは藻掻いていたと私は思います。


 それでも決して無限には辿り着けない。想
いも祈りも言葉に、音楽に、絵にした時点で
それらは言葉でしか、音楽でしか、絵でしか
なくなってしまうから、どんな努力も形骸化
してしまうからです。それならばあらゆる努
力は虚しいのか、いや違う、そうであって欲
しい。脱皮のように繰り返される誕生の物語

の果ての果てを辿ることで、始まりの神の姿
にまで遡れると、私は信じてやみません。バ
ラバラになってしまった世界を唯一繋ぎ合わ
せる神の言葉を、私は知りたい。神をその手
に触れることが叶わなくても、僅かな輪郭を、
足跡を、言葉という、音楽という、絵という、
沈黙という器に残したい。器は器でしかない
から、形骸化は必至の運命だと、私は気付き
ました。


 私は絵を描き始めて久しいですが、描けば
描くほど自分の絵が信じられなくなりました。
まして他の誰かの絵には一層の疑念と嫌厭さ
え抱いています。儚い利益のために他者を弄
び、祈りから遠ざけるそれらが大嫌いで仕方
がありませんでした。けれど、そんな大嫌い
な絵と私の作品とを分かつ境界線は何処にも
なかった。私の絵が信じるに能わないならば
音楽は、文学はどうなのか。制作の合間に幾
つかの本をを読み終え、沢山音楽も聴きまし
た。それでも答えは同じでした。伝えたいの
は言葉でも音楽でもなく、言葉や音楽が手を
伸ばしても届かない先にあるものだと。


 私は昔、みずからの作風を「冬虫夏草やお
葬式みたい」と自嘲していましたが、今にな

ってもそれは変わらないと思い出しました。
そこに命はない、ただの痕跡でしかない。そ
れでも、その痕跡から果てのない絆を思い出
させるものが生まれたならば、絵描きとして
それは喜ばしいです。


 信じられなくても良い、そこに一つ祈りが
あるのなら。復活の時を想い、もう一度祈り
を。強く、深く、切に、祈りを。