汝、神の如く

 昨夜遅く、気分転換に馴染みの林道でツーリングをしていたら、反対側の車道の真ん中に茶色い毛玉が、それもかなり大きいのがうずくまっていました。体長1メートルくらいはありそうで、少なくともタヌキではなさそうでした。この道はよくタヌキやテンが飛び出し、運悪く撥ねられてしまうこともしばしば。今回もそれかなと思って横目にそれを見ると、辺りに血痕や身体の一部が飛び散ったような形跡もなく、至極きれいな状態でした。兎にも角にもそれが気掛かりでした。

 1キロほど先の適当な場所で休憩がてら軽く散歩をして、再びバイクに乗って先程の林道を遡ると案の定、あの毛玉はうずくまっていました。小振りで細く真っすぐな角を一対戴く、ニホンジカのようでした。ゆっくりとお腹が膨らむのが見え、どうやら生きている。いつ車が通るかも分からない道路の真ん中で後ろ足を枕にとぐろを巻いて眠っているとは、いかにも大胆な姿でした。ちょうどそこに散歩中の若い男性が通りがかり、私と同じくシカが気掛かりで駆け付けたそうでした。ともかく、こんな所で眠っていると撥ねられてしまうと思い、シカを起こす事にしました。「おーい、どこで寝とる?うち帰って寝やぁよ?」と酔っ払いでも起こすかのような、通じもしない声掛けをしながらシカを何度も揺すりました。5分ほど揺すっても起きず、バイクのクラクションを連打しても相変わらず。これはいい気だこったと半分呆れながら、もう一度シカを揺すりました。

 何度か揺するうちにシカは薄目を開け、ぼんやりしていました。目の前に天敵であろう人間がいるにも関わらず、あまりにも警戒心がない。どうしたことか。ともかくもう一声ではっきり目が覚め、適当な場所へ逃げるだろうとこちらもひと踏ん張り。こうして立ち往生していると今度は一台の軽トラックが私たちの後ろに停まりました。運転手は40代初めくらいの男性で、人身事故か何かで私たちが立ち会っているのだろうと気に掛けてくれた様でした。状況を簡単に説明すると、トラックの男性もその場で立ち会う事になりました。

 

 

 気を取り直してもう一度揺すってみると、シカはひょっこり起き上がり、路側帯の方へと駆け出して行きました。やっと起きたかと胸を撫で下ろす隙さえ与えず、シカはバッタリその場でへたり込んでしまいました。どうもおかしい、普通ではない。シカの前に駆け寄ってみると、右の前足から血が滴り、ぽっきりと折れていました。骨が折れている、なんてものではなかった。皮が裂け、ザクロ色の肉に包まれた骨を露わにしながら皮一枚で繋がっていた。前足だけではなかった、右の後ろ足も同じく見るも無惨な有様でした。シカは寝ていたのではなく、今にも死にかけていたのでした。

 

 

 私と一緒に駆け付けた男性のご家族に、野生動物の対応に詳しい方がいるとのことで早速ご家族と連絡を取っていました。野生動物への対応は市役所が窓口とのことでしたが既に時刻は深夜11時で完全に時間外でした。詰まる所、警察に連絡するほかはなく、早速トラックの男性が最寄りの警察署へ連絡してくれました。携帯の発信地から場所を特定出来るそうで、通報場所の説明は殊の外スムーズでした。警察へ通報後、初めに会った男性とはここで別れる事になり、私と軽トラの男性と2人でシカを見守ることになりました。世話話をしている間もシカは時々立ち上がって、ばたりと倒れる。「もう動くな、寝てた方が楽だぞ。」と、またしても通じもしない声掛けをしながら私はシカの横に付いて離れませんでした。外気温は10度、寒さのためか恐怖や痛みのためか、シカはブルブルと震えていました。人間の慰めが通じるのかも分からなかった、けれど私は震えるシカの背中をそっとさすらずには居られなかった。野生動物に触るのは不潔だとか、そんなことを考える気もなかった。

 

 

「怖かったなぁ、無理もないよな。こんな暗くて寒い所で一人ぼっちだもんな。もう少し待てば、助けが来るからね。」

 無責任にこんなことを口走ったのを、今でも後悔しています。

 

 

 通報から30分後、ミニパトが私たちの元へ到着しました。3人の警察官がミニパトから現れ、シカの後ろへと車が停め直されました。トラックの男性は警察官に状況を説明し、近くにあった電気線の場所へ案内されました。恐らくこれが事の元凶か、感電した時にどこか鋭い場所で強打して、ぽっきりとやられてしまったのでしょうか。農家の方からすれば罠が期待通りの効果を発揮したと安堵するでしょうけれど、それを目の当たりにした私たちはとても複雑な心境でした。誰かを悪者にしたい訳ではない、誰にも罪がない、コインの裏表のように、誰かの幸運の裏に誰かの不幸があっただけの事。

 

 

 警察官は口頭の状況説明と現場写真を用いてしきりにデスクとやり取りをしていました。特定種でなければ警察は対応できず、その他については市区町村役所か猟友会に任せる他はないという結論でした。結局シカを道路脇の安全な場所に寄せて回復を待つ他なかった、そんな見込みもないのは火を見るよりも明らかでした。規制線を取り出し、シカの首元に引っ掛けて道路脇に引っ張ろうとすると案の定、立ち上がって逃げ出そうとしました。そしてばったりへたり込む、足の裂け目からは以前に増して血が滴り落ちていました。欠けた肉片も先程座り込んでいた場所に落ちていた。

 

 

 何とか警察がシカを脇に寄せると、私たちは沈痛な面持ちでシカを見つめていました。既にシカは虫の息でした。警察として出来るのはここまでで、後は死体として発見されたのを処理する以外に対応は出来ないと、最後にそう説明をしてくれました。

 

 

 パトカーが去っても、私はその場を離れられませんでした。冷静に考えれば誰にでも分かる結末でした、それが野生の掟、人の触れざる世界の掟。だからこそ偽善を振りかざして、余計にシカを苦しめた罪悪感で一杯でした。彼ら自然界の住民にはありふれた悲劇、それを人間の手でどうにかしようと思うなら、とんだ傲慢だ。分かり切った事、そんな事にいちいち胸を痛めるなんて、手前勝手な事だ。

 

 

 涙が止まらなかった。きれいにまつ毛の生え揃った麗らかな瞳には、何の穢れもなかった。ただ運が悪かった。もう息も絶え絶えで、それでもあの瞳だけはきらきらと輝いていた。私には分かる、こんな綺麗な目をした君が罪の一つも犯していないことを。明日には翅が生えて、天使になって飛べるんだ。冷たい夜の寂しさも、耐えがたい痛みも、天国で癒されて、美味しい物を沢山食べて、高い所から仲間たちを見守ることも出来るんだ。そう祈るしかなかった、謝るしかなかった。冷たい頬をひと撫でし、私はその場を立ち去りました。ごめんよ、ごめんよと嘯きながら。

 

 

 その翌日、シカの横たわっていた林道を訪れましたが、そこにはもう何も残っていませんでした。アスファルトに薄黒い血の痕が残っているだけでした。黙祷を一つ捧げ、足早にそこを後にしました。

 

 

 私は今『繭の墓』という組曲を描いているところです。既に発表した"-Depth / 水葬-"と、近日発表の"-遠ノ国 / 風葬-"という作品がありますが、題名の通りレクイエムやエレジーを主題にした作品群となります。生まれた瞬間、死の宣告が始まる。その運命の中で必死に生き抜き、胸を痛め、悪の誘惑に抗い、静かな祈りを捧げる人々の姿を描きたいと思っています。その目次に"-Puddle / 土葬-"という作品があり、私の少年時代の出来事を題材にする予定でしたがこれを期に、前倒しに制作しようと思います。せめてこの作品が、あの可哀そうなシカへの餞になればと、相変わらず手前勝手な動機です。

 

 

 私は絵描きにも詩人にもなりそこなった半端者。それでもキャンバスと言葉を手放すことは出来ませんでした。そこに命があり、命を想う限り私は絵を描き、言葉を紡ぐ事が出来るのですから。