「来年は」「再来年は」なんて気楽に言えてしまうけれど、昨日死んでしまった人にとっての今日は何百年、何千年よりも遠い未来かも知れない。時間という概念に当て嵌める事自体がおかしいかも知れませんけれど、そう大袈裟に考えると今日は一生に一度の、何にも代えられない命だと不意に思いました。特に今日みたいに、無為徒食な一日を送ってしまうと。
絵を描く手が止まってしまっても、絵について考える事は以前に増して多くなりました。日曜画家という言葉があるように芸術は余暇的なもので、安寧の上にそれは成り立ちます。自分自身を平和にすることが、絵を描くために必要な条件だと私は思います。これから吐露する事柄は今後の制作に向けた想いでもあり、私の醜悪を討たんと勇み散った良識の骸でもあります。伝わるものじゃないかも知れない、それでも誰かが、これに何か思うことがあれば嬉しいです。
私も一人の絵描きとして、他の絵描きさんの姿勢について多少の関心があります。私は好きな音楽や本を探す時も作品と作者の両方を吟味し、本当に納得したものだけを手元に置くようにしています。要するに狭く深く付き合うスタイルで、昨今の良く言えば洗練された、悪く言えばジャンキーな楽しみ方は向いていない方でした。絵についても同様で、作品と作者との繋がりを見出だしたい想いがありました。その中に彼は彼女はどんな生命を見せるのか、それを見たかった。勿論中には商業的な用途で絵を描く人もいて、人に仕えるためには無私の境地と言うのでしょうか、そういう聖人みたいな心構えを持つ人も稀にいるでしょう。けれど大抵の人は自己表現として絵を描いていると思います。
そんな事は当たり前だ、当たり前だからこそ誰も話題にすらしない。何が当たり前だよ、どんな基準だよ、誰に見せるんだよ、分からない癖に「当たり前だ」に丸投げするなよ。
ネット上で最近「神絵師」と呼ばれる人の法則について語るコラムがあって読んでみました。この上なく腹立たしくなりました。自画自賛した傑作が誰にも評価されず、楽描きみたいな作品の方が万人受けして落胆した人の悩みについて答えるものでしたが、筆者は彼に「他人の評価を自己満足と置き換えて喜びましょう」という旨の返事がなされていました。
確かに正しい、それが仕事なら。
生きるって「仕事」でしかないのかよ。そんな人任せな事なのかよ、人生は。誰かのために生きて、誰かのせいで死ぬ、それが絵なのかよ、命かよ。もう辞めてくれ、そんなの聞き飽きた、聞きたくない。役に立たないなら描いちゃいけないのか、生きちゃいけないのか、何が多様性だ、何が繋がりたいだ、お前たちには一生分からない事だろう。
絵なんか拠り所にしなくて良い、居場所なんて探せば何処にでもある。だけど絵を描く事でしか生きられない人だっている、そのせいで傷付き絵を諦めた人だっている、命さえ絶とうとした人だって。そんな人にこんな事、言えるのかい?私のために死んでください、それか私の言いなりになりなさい、そう言えるのかい?
役立たずで何が悪い?そんな人を笑い者にして、見下して、まぁ下には下がいるからと胸くそ悪い自己肯定で生きて来たなら、その人はもう役立たずなんかじゃない。人一人を生かした聖人だと私は褒め称えたい。だから殺さないでくれ、役立たずな役立たずなんて、きっといないのだから。役立たずなんかより、役立たずと決めつけて殺す輩の方がずっと、私には怖いよ。
閲覧0回いいね0回リツイート0回、それでいいじゃないか。毎日閲覧しているじゃないか、毎日いいねしているじゃないか、毎日リツイートしているじゃないか、自分でそうやって。それが生きることじゃないか。
もう文章の体裁すら保てない有り様です。これを書きながらやはり初めから、何も伝えたい事などなかったと思いました。伝えることすら、今は難しい行いなのかも知れません。だからせめて、伝わらないままここに残しておきたかった。いつか伝わる、なんて甘い期待を込めて。日がな一日、甘い期待の連続で生き繋いできた、それが私たちなのだと思います。
神様は願いなんて叶えない、ただあなたの声を何処か遠くで聴いているから。赦してくれるから、どうかそのまま。今日を生きられなかったあなたはきっと、それを知っているんだね。
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