繋がったとか、容易く言うな。/創作は交差点。

 どんな言葉で始めようか迷っていました。しがない絵描きとして、名もなき一粒の観衆として率直に申します。

 

 

 私は絵描きが嫌いだ。

「#絵描きさんと繋がりたい」?誰の事も知ろうとしないくせに容易く繋がったとか言ってくれるな。結局自分が可愛いだけだろ?いいねとリツイートが欲しいだけだろ?都合のいい取り巻きが欲しいだけだろ?見え透いた下心を口当たり良く正当化したいだけだろ?

 

 

「#絵描きさんと繋がりたい」も裏を返せば、絵描き以外には興味がない、絵は絵描きだけで独り占めしたいという傲慢に私は聞こえます。恐らくあのハッシュタグを使う人の殆どは悪気もなく無邪気に発信しているだけだと思いますが、言葉の意味を深く考えるなら「繋がりたい」なんて言って欲しくなかった。あなたがその人の人間性を認める気がないのなら。

 

 

 たまに見るテレビのニュースで「承認欲求おばけ」という言葉が出てきて私はぞわっと背筋をなぞられる心地がしましたが、絵描きの界隈にもそれに駆り立てられたハッシュタグの羅列を目の当たりにすることも少なくありませんでした。繋がりは本来数値化できないし、数値化してはいけない。何回閲覧?いいねは何回?リツイートは何回?フォロワーが何人?そんな容易い事柄じゃない。潮干狩りか何かじゃないんだよ。あなたも私も砂利に塗れて汚いバケツへ一緒くたに放り込まれたくもないでしょう。

 

 

 数値化をすることで生まれるのは思考の停滞と、不毛な競争だけ。その争いによって傷付き、蔑ろにされて来た人たちの事を考えたことがありますか?描くのを諦めてしまった人がいるのを知っていますか?勝者が生まれるなら敗者も生まれる、勝者はたった一人で、敗者は数え切れません。それが競争というものです。「あなたも勝ちたいなら私のように頑張りなさい」「大丈夫、いつか強くなれる」と背中を押す人もいるかも知れません。けれど、そんな慰めは無責任でしかない、慰めにすらならない。数値に捕らわれている時点で一人の勝者と余多の敗者を生み出す悪循環を断ち切ることは出来ない。

 

 

 そもそも私は思うのです。創作という行為には必ず値段や評価が伴わないといけないものなのか、売り物でしかないのか、と。ある分野ではそうかも知れませんし、それ自体を否定する訳ではありません。ただ、それを全体の価値として欲しくない、それだけの事です。

 

 

 私にとって創作とは、全ての人と文化が行き交う交差点のようなものだと思います。そこは検問もなく通行料もなく自由に全てが行き来できる場所で在って欲しい、そう願っています。私は絵描きである以前に福祉の現場で働く職員でもありますし、キリスト教会の幼稚園に育まれた小さな塩の小粒でもあり、ロックバンドのファンでもあり、雑多な文学ファンでもあります。それらを抜きにして私の作品は成り立たないと思っています。私が描きたいのは絵ではなく、絵という器に込められたものですから。けれど現実的に、絵に描いた時点でそれは絵でしかなく、絵に込めようとした種々の願いは跡形もなく姿を消してしまうかも知れません。抜け殻でしかない、それでもその抜け殻に宿っていた生命に想いを馳せる人が居るならば、それはとても嬉しい事です。

 

 

 逆に言ってしまえば、絵を描こうとだけ思っていると、それはもう絵でも何でもなくなってしまうのではないかとさえ思っています。宿主のいない、窓も扉もない空き家になってしまうのではないかと思っています。誰も入れない空き家を競売にかけることが創作だというのなら、私はとても寂しいと思います。

 

 

 創作、いや人間にはそれぞれ生い立ちや色があって、最小公倍数や最大公約数も持ち合わせていると思います。その中でどうしても多数派と少数派が分かれてしまうのは仕方がないものですが、完全な多数派も少数派もこの世には存在しません。長年の大親友とだって時々は喧嘩もするでしょうし、好きになれない人がたまにはマトモな事を言ったなと見直すことがあるはずです。創作だってその本質と何ら変わらないのではないでしょうか。大路地か獣道かの違いはあれ、そこを通る人が必ずいるはず。その道を必要とする人は必ずいるはず、もしかしたら作ったその人しか通らない道かも知れない。それらが共存し、往々に行き交うようになって欲しい。その道によって生きている人がいることを、忘れないで欲しい。

 

 

 ですから、「繋がりたい」という言葉の意味を、今一度考え直すべきだと思います。それに限らず全ての言葉は薬にも毒にもなることを忘れないように。「繋がりたい」という言葉も使い方次第では祝福にも、呪いにもなりうるのですから。