ひとり、おもう。

 ひっそりと一人暮らしを始めて、2週間近くが経ちました。

それに触発されて兄も一人暮らしへと着々と準備を進め、運搬作業の手助けとして車を手配したり、暫くはそんな日々が続きそうです。

両親もまた、祖父母の生活を見守るために足助近くの山奥へと間もなく居を移すことになります。

 

 

 仕事では今の職場に勤めて1年8ヶ月をもって正規職員としての内定を頂き、より責任の伴う立場で働くことになります。

仕事もプライベートも、自分の責任で全てを回していくことになる。

未だに気持ちの整理が着かないのが現状です。

 

 

 当たり前のように3食を食べて、当たり前のようにお風呂に入って、当たり前のように洗いたての衣類を身にまとう。

幼い頃からの当たり前を支えるのに、大人たちがどれほど多くの手間暇を掛け続けてきたのかと、親をはじめ多くの人々に感謝をしなかった日はありませんでした。

 

 

 そう感じながらも、日常に何かを忘れてしまったような気がしてなりませんでした。

忙しさが当たり前になっていく中、学生の頃に抱いた正義感や潔癖なまでのあの感情は何処に行ってしまったのか。

もちろん、本日ただいま溢れかえっている不正の数々、痛みの数々を見逃すわけにはいきませんでした。

けれど、あの頃ほどの当事者意識がどこか遠のいてしまったような、見て見ぬふりをしているような気がします。

 

 

 たった一人、音のないこの部屋で毎日が過ぎていく。

自分だけのライフスタイル、料理のような楽しみもいっぱいありますけれど、何かが足りない。

外との関りから隔てられた、まるで真空で、牢獄のような時間。

元々多弁な私には、一層それが辛く感じます。

 

 

 けれど一人になって、気付かされることがとてもありました。

誰かをただ待っている。

慣れ親しんだ家族や友人と、もう一度話をしてみたい。

誰かをここに招いて、慣れない手料理でも振舞ってみたい。

ただただ、恋しさだけが充満していて、この部屋で暮らすことが決まってから、そんな事ばかりを考えていました。

 

 

 人間繊維、所詮は脆くて流されやすい、簡単にねじ曲がってしまう。

私もその例にもれず、弱い人間の一人でした。

今夜は生姜焼き。ご飯茶碗と青いお皿は祖父母の形見です。
今夜は生姜焼き。ご飯茶碗と青いお皿は祖父母の形見です。

 愛はあるか、祈りはあるか。

一人では持て余してしまう食器に家具。

その中には両親が奮発して買ってくれた学習机や電子ピアノ、祖父母の形見の品も沢山あります。

 

 

 生きることはとても地味で、大変な仕事の積み重ねに違いない。

それでも私は一人ではなかった、一人ではいられない。

それをもう一度思い出して、代わり映えのない日々に、ささやかな祈りを。