こころのふるさと

 生活支援員の仕事を始めて早2ヶ月。学生時代が長引いた分だけ仕事への憧れが強かった僕ですが、実際に働いてみると本当に「忙しさ」を感じます。ゆとりを持って同世代の若者たちと共に学び、考えを分かち合う。改めて学生時代の大切さが身にしみる毎日です。

 

 

 「心を亡くす」と書いて「忙しい」と読む。台風が吹こうが地震が起ころうが、貧困に苦しむ若者がいようが何処かの町が地図から消えようが、自分さえ良ければ。

 

 

 僕の職場は「ホワイト企業」の鑑という体裁ではあるものの、目の離せない重度な障害を持つ方々を相手にした仕事はとても大変です。そのせいか入社1年目の若い職員さんまでも心を亡くして、こんなふうに冷えてしまうことも。仕事熱心な勤務風景と休憩中の発言との温度差に落胆するのもしばしば。

 

 

 大人というのは、こんなものか。そう嘆くのは簡単だけど、僕には何ができるのか。

 

 

 学生の頃に学んだ、大切な心があります。コンパニア、それは「同じパンを分け合う仲間」。同じ場所で同じ時間を過ごし、同じパンを分け合うこと。利害関係も何もなく、そのままを認め合うこと。

 

 

 たった今「どうでもいい」と見捨てた人が、明日には友達になっていたら。もしかしたら自分も誰かから「どうでもいい」と見捨てられたかも知れない。どうでもいいはずがない、どうでもいいまま生きてなんていられない。

 

 

 だからこそ、利用者さんも他の職員さんも友達と呼びたかった。それを喜んでくれる利用者さんもいたから、一層そう願うようになる。

 

 

 けれど僕の提案を望むか否かはその人次第で、多忙で頑なになった心は中々動かないと痛感します。

 

 

 それどころか、誘惑の魔の手は今も僕の肩を叩いている。褒められても嬉しくなかった、組織の人間だけとして認められるくらいなら。何かを願っただけで叱られた気分になるのも、耐えられない。ふざけるな、僕は仕事人以前に自由な人間だ。これだけは誰にも邪魔されたくない。

 

 

 自由に生きるのも、心に従うのも、本当に大変な仕事だと思う。けれど腐ってしまうくらいなら、傷付いた方がいい。何も感じないくらいなら、痛い方がいい。

 

 

 僕らはずっと、ふるさとを求めて生きている。生きるために何かを信じたい。この命が尽き果てても伝え遺したい、約束が欲しい。この世界の何処かに、永遠があると願いたい。

 

 

 旅はまだ始まったばかり。