去年11月に祖母が亡くなって以来、初めてお墓参りに行きました。
型落ちの軽自動車を走らせて40分、僕の母の生まれた
実家を少し通り過ぎた先にある墓地にたどり着く。
少しずつ変わっていく町並み、その中で変わらないものを感じながら、
静かな帰郷をその身いっぱいで受け止める。
お墓参りも含めて、帰郷には色んな想いがあります。
自分自身の生い立ちを振り返るため、愛し愛された記憶を取り戻すため。
人生をただ虚しく過ぎ去るものにしたくないから。
墓前で祖父母と久々に再会した時、色んな想いが溢れ出しました。
僕は他の人よりも少し遠回りな生き方をしてきたと思います。
学びの姿勢に対する疑問から大学を2年間留年し、卒業した現在は
少し遅れた就職活動の最中です。
天職だと見込んだ障がい者福祉で働くために介護職員初任者研修を経て、
希望の職場への面接がもうすぐまで迫っています。
それまでの間、空白に近い時間が長く続きました。
定職を得るまではアルバイト生活で、時間的な行き違いで親しい友達とは
中々会えないことも多くありました。
責任もなく、あまり人とも会っていない、誰からも必要とされていない
ような現状が歯痒くて、生きた心地がしないと常々感じていました。
勿論その間に何もしなかった訳ではありません。
さもなくば資格を取ったり求人を巡ったりもしません。
けれど、ゆっくりとしか進まない時間が時には地獄のようでした。
このご時世、経済的に大学に通えない人や奨学金の返済に
追われる人も少なくない中で、僕のような過ごし方は贅沢かも知れません。
そんな日々が、ただ辛かった。
祖父母の墓前に立って、初めに何を思い出したのか。
僕の母は経済的な厳しさや当時の社会通念から大学への進学を
諦めさせられたことを思い出しました。
そんな母と、父が頑張って僕を今日まで生かしてくれたという事実。
生前の祖父は農業ひと筋で、あまり喋らなかったけれど優しかったこと。
そんな祖父を傍らで支えていた祖母は、僕にお菓子と一緒にお抹茶を立てたり、
祖父が亡くなった翌週に一人挨拶に行ったら喜んでいて、
こっそりお小遣いをくれたりもしたかな。
色んな出来事がありましたけど、祖父母が残したのは
形のある財産よりも、こういう記憶の方が僕には大きかった。
僕もいつかは全てを喪って旅立っていくけれど、彼らのように
誰かに何かを残せたらな、と思いを馳せたりもしました。
絶対に死なないもの、永遠を僕たちは願ってしまう。
永遠なんてなくて、僕らは死んでいく一方で生きていくなら、
生きる希望は悲劇にしかならない。
僕には分かりません、永遠というものがこの世界にあるかなんて。
それでも、旅立っていった大切な人たちが遺したものは
いつも希望に溢れていました。
いつかは終わってしまう人生だけど、そんなことを思い出すと、
こんな人生も悪くないな、と思う時もある。
やっぱり僕は、永遠を願わずにはいられませんでした。
いま感じているこの虚しさもきっと、その願いから来るような気がしました。
空っぽの人生にはしたくない、いつも何処かで誰かと触れていたい、
死ぬまでも、もしかしたら死んだ後になっても願い続けるかも知れない。
こんな想いを綴りながら、今夜も眠れそうにない。
だけどほんの少しだけ、寂しさも和らいだかな。
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