掴んで、離して

 久しぶりの日録、婆娑羅です。

先月末に25歳の誕生日を迎えましたが、この年齢は俗に言う「クオーターライフ・クライシス」と呼ばれる時期だそうです。僕もこの頃、色々な出来事があって、自分の今までの考え方や経験を振り返ることが、とても多くなりました。

 

 

 僕は根無し草の絵描きとして、自分の身の回りにある出会いや経験、見聞などの中から一番大切だと思うことを伝えるために絵を描き続けたいとずっと願い続けていました。それは自分自身を救うためだけど、出来れば遠くの誰かも救ってみたい、注目を集めなくても一銭の得にもならなくて、それさえ叶えば他はどうでも良かった。

 

 

 大切な何かを伝えたい、その気持ちは今でも変わらない。けれど僕の今のやり方は正しかったのか、こんな疑問を前に雁首を垂れながら、なかなか立ち直れずにいました。

 

 

 

 

 

 僕は長らく「言い回しが回りくどい」と近しい人たちから言われ続けました。僕の周りの友達は割と理詰めの会話が多く、僕自身もそれに大きく影響された所があると思います。近しい人たちから離れた場所ではそんな言葉回しが災いして、距離を置かれる事もなくはなかったですが、概ね順調に事が運ばれていたから、特段気にすることもありませんでした。けれどある日を境に、そんな自分が嫌いになってしまいました。

 

 

 伝えたいことが溢れるから、口数もどんどん増えていく。ドロー系の曲線のように、どんなに近くで見ても確かな輪郭を保てるように、どんどん情報を盛り込んでいきました。

 

 

 外壁は強固だ、だけどそこまで塗り固めた壁の奥に何があるのか。何もなかった、というわけではない。何かが確かにあった、一番伝えたい何かが、その中にあった。僕はそれを、壁の外側に向けて解き放つのをずっと恐れていたのだと、気付かされた。伝えてしまったら後戻りが出来ないから、ただ恥ずかしいから、怖いから、素直になれないから、本音に一番近いもので塗り固めて、いつの間に本音さえ曖昧になって、心までも閉ざしていたのだと、気付かされた。

 

 

 人生25年も生きれば、僕の人生はもはや僕だけのものではないと常々感じさせられます。

十数年間の付き合いのある親友たち、もうすぐお別れしてしまうアルバイト先の職員さんや利用者さん、まだ見ぬ人たち。たった一人の初恋の人。

 

 

 彼らに本当に伝えたい事は、単純でたったひと言。そのひと言を言うのに、こんなにも臆病になってしまった自分が、ただ悲しかった。

 

 

 大声でたったひと言、叫びたい。

「ありがとう」「ごめんなさい」「さようなら」「愛している」

 

 

 強固で臆病な僕の、言葉の壁を少しずつ壊していきたい。その欠片から掴んで、離して、たった一つを選んで叫びたい。バカになってもいい、笑われてもいいから、ただ伝えたい。分かり合って、笑い合えるなら、もうそれだけでいい。

 

 

 そんな簡単な事が出来ない僕を、少しずつ変えていきたい。