花園をまといて。

 肺がんとの闘病のなか脳梗塞で倒れた祖母は

11月14日午前7時20分、89歳で浄土へと旅立ちました。

祖父を亡くしてから4年後のことでした。

僕が生まれる前からずっと愛してくれた大切な人、

親戚たちの憩いの場の中心でいつも見守ってくれたおばあさん。

今は狼煙とともに、高いあの空へと昇っていったのでしょう。

込み上げすぎた想いをこぼさぬように、今は回想します。

 

 

 祖母が生まれたのは、愛知の小さな貧しい農家でした。

僅か9歳だった頃に身体が弱かった父を亡くし、それから実家の

畑の手伝いをするようになりました。

殆どの時間を畑で過ごした祖母の囁かな楽しみはNHKの歌謡番組で、

まめな性格で新聞のスクラップ作りや料理や日常のメモなども

毎日欠かさず行っていたといいます。

 

 

 時々、名古屋に住む僕らのためにも畑で採れた沢山の野菜や果物を

山分けしてくれて、食材に事欠くどころか使い道に悩むこともあった程でした。

少しの距離を隔てながらも、祖父母のお世話に

なっていることを忘れることはありませんでした。

 

 

 毎年二回(以前は地元の祭りも合わせて三回でしたが)、お正月とお盆には

親戚たちも集まって賑やかに過ごしました。

小さい頃は殆ど無理やり連れて来られたのであまり良い心地が

ありませんでしたが、受験などで疲れて人間不信さえ覚えかけた頃には、

見守ってくれる大勢の親戚と、その中心にいる祖父母の存在がとても

心強く、そして温かかったです。

 

 

 

 

 

 三年前に祖父が亡くなった時、確かその翌週すぐだったと思います。

何かの気持ちが込み上げて、夕日が沈みかける頃に自転車に乗ってたった一人、

祖母の実家に訪れたことがありました。

高齢でゆったりした動作だった祖母も流石に驚いた様子で、

それでも僕に夕飯を振舞ってくれたり、迷惑をかけた申し訳なさも半分、

祖母と分かち合った嬉しさも半分ずつ。

結局その晩は泊まって、朝早くには祖父のお墓参りをした後に

お仏壇に祖母から教わった立て方で抹茶をお供えして、家を後にしました。

 

 

 

 

 

 晩年の祖母はとても伸び伸びと余生を過ごしていたと聞きました。

「女やもめに花が咲く」と言うと失礼ですが、それくらい

気持ちが軽くなったところもあったそうです。

久しぶりにおしゃれをしたり、足腰が弱ったものの親戚や子どもたちが

毎日それぞれの用事の合間を縫ってお世話にやってきたりと、

実家で一人過ごす時間は思ったよりも短かったそうです。

 

 

 祖母が脳梗塞で入院する前に僕も四度ほど祖母の元を訪れました。

初めて祖母の元へバイクで訪れた時は驚かれたものでした。

一杯のお茶を頂いて、家での過ごし方を聞いたり、今朝の新聞についての

話題が母と全く同じで、流石は親子だと思ったり。

(因みに新聞の記事は将棋の藤井四段についてでした)

例のごとくお手土産にと畑で採れた玉ねぎを頂き、

シート下のメットインに入れて帰ったというシュールな思い出もありました(笑)

座っている座席の下で玉ねぎがゴトゴトと・・・、ね。

 

 

 僕が最後にお見舞いへ行った時、何も声を掛けられませんでした。

隣で呼び掛ける母の声は、どこか悲しみに帯びていました。

麻痺のなかった右腕さえも虫の息で、全く意思を感じ取れなかった。

手当たり次第に握ろうとする反射でさえも懐かしかったほど、悲しかった。

何を悔やめば良いか、それさえも分からなかった。

 

 

 

 

 

 訃報を聞いてからお通夜で無言の対面をするまで、全く実感が湧きませんでした。

悲しくも悔しくもない、表情にもあらわれない虚しさだけが漂っていました。

訃報の二日後に初めて祖母と対面した時でさえも、

本当にこれが祖母だったのか、一瞬戸惑うこともありました。

入院中は入れ歯を外していたせいなのか、おめかしをした姿かたちが

生前とはどこか掛け離れていたような印象を与えたのでしょう。

参列した親戚や家族も厳粛な態度を保ちながらも、どこか小ざっぱりした

雰囲気があって、いつもの彼ららしいなと振り返ったり。

 

 

 せき止めていた感情が溢れ出したのは、お葬式の最後に花を手向ける時でした。

柩の蓋が下ろされ、皆が最期の想いを伝える時でした。

会場に敷き詰められた花々は、最期の祖母を彩る花園へと姿を変えていく。

そして生前、祖母が書き溜めた生活のメモも餞のお供に手渡されました。

料理のメモ、簡単な覚え書き、日記の断片。

僕が受け取ったのは、冷蔵庫が壊れて氷が水になってしまい、

僕の母が助けにやってきた時の一ページでした。

 

 

「ほら、母さんの名前が書いてあるよ」と母に見せると、

「うん、そういえばそんなこともあったね」と母。

名前のわからない花も沢山あった、それでも何度も何度も、

係の方の持つバスケットから花を頂いては、祖母の元へと運んで行きました。

祖父への最期のご馳走はお刺身とお酒でしたが、祖母へのご馳走は

僕たちにいつも振舞ってくれた、あのお茶でした。

一枚の葉っぱで汲み取って、皆で飲ませてあげました。

 

 

 これが最期だ、悔いがないように。

手向けの花がなくなり、ただ空っぽの手を握って見守るだけ。

手の震えが止まらなくて、堪えようのない涙が溢れ出しました。

少しでも長く祖母のそばにいたい、霊柩車へと祖母を運ぶ男手に

せめて今はと馳せ参じたのが、本当の最期でした。

 

 

 

 

 

 当たり前のだった大切な人も、家族の習わしも、

心残りも、今は思い出になりました。

この文章を書いている時でさえ、胸が締め付けられそうで

気付けば涙が頬を伝っていました。

現実を受け入れられても、未だに心の整理はつかない。

僕以上に母の方がきっと、この気持ちを強く感じていると思います。

 

 

 この悲しみが少し晴れたら、僕は何をしよう。

ただ今日も空が青くて、知らない誰かが笑いながら生活をしている。

日常のありふれた風景でさえ、今の僕は少し特別に感じます。

きっと毎日は特別で、僕らはそれに余りにも無頓着だったかも知れない。

喪いを通して、今は愛しさを抱きしめて喪が明けるを待っています。