ゴールデンウィークも半ばですが今日が何の日か、少しでも
頭の片隅に置きながら過ごしてほしいなと思い、記事を書かせて頂きます。
今日は憲法記念日で、今年で日本国憲法の制定から70年を迎えました。
憲法についてこれほど重みを感じさせる年はなかったでしょう、
けれど一方で、そんな憲法を踏みにじるような発言詳報もありました。
僕は毎年、この日になると120年も昔の「五日市憲法」と呼ばれる
私擬憲法(市民による憲法草案)のことを思い出し、
今日の憲法の重みと有り難みに感謝せざるを得ません。
基本的人権・普通選挙・教育の権利、私擬憲法の理想はほぼそのままの形で、
現在の憲法として生きているのです。
この憲法が制定されるまでに戦争や治安維持法(今の共謀罪法案)によって
多くの人々が弾圧され命が奪われました。
それだけの犠牲の上で成り立っている憲法を容易く否定する
現政権の姿勢は傲慢以外の何者でもありません。
これだけの一大事を「不毛な議論」云々(でんでん、ではありません・・笑)
の一言で片付けて良いはずがないからです。
「押しつけ憲法論」については戦後、GHQのマッカーサー統帥と幣原喜重郎首相
とのやり取りから既に否定されましたし、現在の憲法は鈴木安蔵さんを
はじめ、日本人の憲法学者たちによって作成されました。
(皮肉なことに、鈴木さんの故郷である福島県南相馬市は現在、
原発事故で立ち入りが制限されています。)
これは決して日本人だけではなく、世界の人々が悲願していた憲法だと思います。
現に憲法の前文には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあります。
日本も貧困に苦しみましたし、人類史上初の原爆被爆国となりました。
しかし日本は満州国をはじめ、アジア諸国に対して侵略行為を行いました。
被害者になるのも、加害者になるのももう懲り懲りだ、だからこそ
一切の武力を放棄するという選択に日本が率先したことは英断です。
これは日本国だけの決め事ではなく、外交宣言としても大きな役割を果たしました。
松浦悟郎さんの『平和をつなぐ』という本からの引用ですが、
アフガン戦争後、アフガニスタンでは米国に対する恐怖心や不信感が広まり、
兵士以外の欧米人(かつて侵略してきた英国を含む)がテロの標的に
なることも少なくありませんでした。
例え自らをドイツ人だと名乗っても、信用には値しないそうです。
ところが日本人に対しては寧ろ、特別な敬意を持っているというのです。
それを保証したのが日本国憲法であり、特に憲法9条は世界の宝なのです。
もしこれらが失われたら、或いはないに等しい状況に
なってしまったら、どうなるでしょうか。
現状を見れば、それがよくわかると思います。
もう一つ、忘れてはいけないことがあります。
日本国憲法はまさに、権力に対する勝利の証であるということです。
僕が思うに権力とは、ごく一部の人間や組織の利益のために大勢の人々を
支配したり搾取したり抑圧したりする力を指します。
戦争や暴力、個人の思想への介入もその中に入りますが、憲法の前文には
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に
由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とあり、
こうした違憲立法への歯止めもしっかり含まれています。
いま物議を醸し出している共謀罪にかつて強行採決された集団的自衛権、
それに特定秘密保護法はこの憲法とは明らかに対立する法案ですし、
逆に言えばこの違憲立法や自民党の言う「新憲法」は、
権力の敗北の象徴たる現行憲法への報復的な政策であるようにも捉えられます。
総じて、戦争と貧困、抑圧による悲劇を繰り返さないためにも、
この憲法を、先人たちの想いを僕たちが守り続けなければならないと思います。
「憲法に守ってもらう」と考えてはいけません、憲法はあくまで、
僕たちに対する大きな問い掛けです。
どうすれば非暴力で外交問題や紛争を解決するか、同じ過ちを繰り返さず、
世界に平和を運ぶにはどうすべきか、そういう条件の付いた問い掛けがあります。
だからこそ、僕たちが想像力を巡らせて、それを日常の片隅や選挙でも、
個々人の自由意思によって運んでいく義務があると考えます。
僕たちが憲法を守らなければ、権力はますます暴走します。
一刻を争う問題ではありますが、大声で怒りを上げる前に
この事を一緒に考えていきたいです。
最後になりますが、現代情勢を例示して憲法の変更が必要だという声があります。
その結論として緊急事態条項や安保法制の拡張があがることもありますが、
暴力的な解決を求める背景には他者への「恐れ」があると思います。
恐れや不信は、もっとも平和を妨げる個人的な要因だと僕は考えます。
身近な人間関係に対して、恐れや不信をもって接しているなら、
相手を無視するか、攻撃するかの選択肢しか現れないでしょう。
確かに北朝鮮の情勢は滅茶苦茶ですが、どこがそこまで
この国を追い詰めたのでしょうか?
朝鮮戦争ではかつて米兵によって「朝鮮半島はコメ文化だから、貯水池を決壊
させたらさぞ怒るだろう」と遊び半分で貯水池を壊され、田畑を踏みにじられました。
国が分たれ、文化が踏みにじされて、そこまでされて平常を保てるとは思いません。
それに金政権も、日本や米国の軍事力を見てそこにミサイルなんて打ち込んだら、
どんな報復が来るか、分かっているはずです。
米国の動向もそうですし、それに関わるお隣の韓国や中国の様相だって気になるでしょう。
まして先日のシリア空爆を見れば、気が気ではないでしょう。
これこそ、恐れによる負の連鎖ですし、戦争に加担するように仕向ける
メディアの罪もそれ相応に大きいです。
故に北朝鮮でさえも対話の姿勢を示したのに、ある程度は納得がいくと思います。
勿論、明らかに危険ならば距離を置く必要がありますが、
不信と恐怖をもって解決しようとする姿勢は一番危険です。
憲法や国際情勢という大きな枠組みだと中々イメージが難しいですけど、
個人レベルでこの恐れを少しでも克服していく努力が必要だと思います。
平和を作りたいなら平和な心で、平和的な対話が必要です。
友達や新しく知り合った人たちとお茶でも飲みながら、ゆっくりと
憲法や他の国々について話し合える時間を持てたら、とても素晴らしいと思います。
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