白猫と幽霊おじさん??

 梅もちらほら桜の季節、ちょうど今日は名古屋でも桜の見頃という

ことでお花見に参りました(^^)

が・・・、生憎の曇天からの雨でワイワイガヤガヤのポカポカ、

とは程遠い、例年のしっとりしたお花見でした・・。

そして題名にもあるように、ちょっと奇妙な世界に踏み込んでしまった

心地もありますが、まぁこれも後述します・・。

そして相変わらずの一人花見、天気も手伝って人恋しいです(T_T)

 

 

 今回訪れたのは東山動植物園にほど近い平和記念公園、写真も幾らか

撮って参りましたので、ちょっとご紹介します(^^)

 

 

 名古屋にも桜の名所が幾つかあって、特に名城公園は広々としていて

家族でピクニックをしたり、イベントがあったり、出店も並んだりと華々しいと言います。

一方、平和公園はそういう賑やかさもなく地味ですし、何せ墓地も立ち並んでいるので

あんまり観光には向かないかも知れませんね(-_-;)

それでも桜並木は綺麗ですし、閑寂な佇まいのお堂やオブジェに似た建造物と

桜はお互いに主張し合うこともなく、静かに溶け込んだ風景も風情がありますよ。

 いかんせんカメラが古いのと周囲が暗いのもあってノイズが多いですが、

平和公園の駐車場から平和堂へと続く階段もご覧の桜並木(^^)

振り返った親子が桜を背景に写真を撮ったりもしていました。

平和公園には印象的な建造物もあり、その中から平和堂虹の塔を紹介します。

平和堂
平和堂
虹の塔
虹の塔

 平和堂は第二次世界大戦後の日中の親睦を約束するために建てられたお堂で、

この中には南京市のお寺に蔵されていた千手観音像が鎮座しています(^^)

時事話をすると長くなるので手短ですが、今は日中関係の悪化を強調する

ニュースが多いですが、文化的な面では戦後平和に向けた両国の歩み寄りが

ここに確かにあったことがとても希望に繋がると思います。

 

 

 写真右の虹の塔、らせん状の建物が広場の真ん中にあるのですから

相当インパクトが大きいですよ(^_^;)

この塔がどうして虹の塔と呼ばれるかと言いますと、この塔内部に色ガラスが

張られていまして、春分と秋分のある時間帯に塔内を見上げると、

虹の輪が見られるからだそうです(^^)

ただこの日は天気と時期が合わないので、一応それっぽいものが見られる程度ですね・・。

まぁこれはこれで綺麗ですが・・。

虹の塔 内部
虹の塔 内部
平和堂から虹の塔を眺めたり
平和堂から虹の塔を眺めたり
虹の塔から平和堂を眺めたり
虹の塔から平和堂を眺めたり

 

 さて、ここで話がガラリと変わります。

先程も申したようにこの近くには墓地があり、墓地寄りの駐車場には

ベンチも置いてありましたが、そのベンチには一匹の白猫がとぐろを巻いていて、

そのすぐ隣に50代後半と見られる男性が座っているという面白い光景に出会いました。

 

 

 余りにも奇妙で、何処其処のミステリー小説的な場面だったもので

「この子、人に慣れているんですね。」と男性に声を掛けてみたり。

いやぁこの一言から1時間くらいは話し込みましたね(´-ω-`)

 

 

 男性の話によると、この猫が人に慣れているのは元が家猫だったからと言い、

このベンチには度々腰を掛けているという話から、すっかり猫とは顔なじみのようです。

猫は非常に霊感が強く、突然に身の毛を立てながら暴れ走るのもそのためと、

僕が思う50代男性の話とは思えず、彼が何者なのかが気掛かりにもなりました。

 

 

 これも事実かは怪しいですが、彼の兄は肝試しで祟られて亡くなったという

ような話にが上がったり、親族の霊が死装束姿で現れて、それが遺灰の中に吸い込まれて

消えたという、にわかに信じがたい話が羅列されました。

だからこそ、不用意に墓地を汚したりしてはいけないと念を押してきました。

霊の存在については確信に近い考えの持ち主のようで、恐らく霊感は

猫並みに強いのかも知れませんね。

成田山で写真を撮るとオーブ(霊魂が可視化したもの)が現れたとか、

広島と長崎の原爆による死者の霊魂が現れないのは、原爆は霊魂さえも

焼き払ってしまう、という突拍子もない話がありましたが、核に反対する

という意思だけは僕らの中で唯一一致していました。

 

 

 彼の話を一通り聞いた後、僕は5年前から絵を描いていて、今年と去年に

亡くなった人たちを想いながら描いている作品があることを話しました。

思い出を語るにも短い時間しか過ごせなかったこと、それでも一番綺麗な形で

残しておきたいものがあること、桜が愛しく思えるのは、この世に永遠はないと

思わせるほど儚い命があるから、全ては愛しい、そんな言葉で語り掛けました。

 

 

 彼の返事は変わらず朗らかながら、どこか淡々としていました。

 

 

「死者に執着してはいけない」

 

 

 僕は、彼のこの言葉が今でも頭から離れませんでした。

霊魂の存在を容易く否定できないから、気の緩みや安易な態度で死者に

憑かれてしまう、と。

僕にはこれが、とても比喩的に聞こえました。

亡くなってしまった人は戻らない、だからこそ存在の証を立てたかった。

僕の絵はある意味、墓標と似た意味があるのかも知れません。

勿論分かっている、生きている今を大事にすべきことくらいは。

それなのに何故か、彼の言葉が深く突き刺さったまま、抜けなかった。

 

 

 けれど彼は、僕をなだめるように「きっと彼も喜んで成仏できる」

「その気持ちが良いことを招き寄せる」と言ってくれました。

僕の知り合いが成仏したか否かは分からない、お墓の前で手を合わせたから

願いが叶うなんて思わないし、そんな目的は初めからなかった。

ひねくれ過ぎた気持ちは変わりませんけれど、彼の言葉には励まされました。

 

 

 どうして彼は、そこまで死や霊魂について語るのか。

その疑問は後になって少し解けたようです。

彼と別れる間際、最後に彼の身の上を語ってくれました。

 

 

 実際の彼は65歳でまもなく定年を迎えますが、腎不全がいつ起きてもおかしくない

容態で透析を受けるには仕事を辞め、生活保護を受けなければならないといいます。

彼はすでに、10年の余命宣告を受けていました。

ここまで話を聞くと、曇天は堰を切ったかのような雨天に変わりました。

「残された命を悔いなく生きたい、謳歌したい」

とても切実な、本音がそこにはありました。

 

 

 気付いたら白猫はどこかへ行ってしまいました。

しかし周りを見渡すと、ベンチの後ろの茂みの中で白い発泡スチロール箱に

ビニールを被せ、風で飛ばされないための重しとして石まで置いた

手作りの猫小屋があって、その中で白猫は雨風をしのいでいました。

この白猫はおじさんと僕を巡り合わせた、隠れたキーパーソンです。
この白猫はおじさんと僕を巡り合わせた、隠れたキーパーソンです。

 たった一匹の白猫から始まった、不思議なおじさんとの出会い。

一瞬だけこの世とあの世の狭間に立った気分でした。

またいつか、それも晴れた日に彼と会える日は来るのだろうか。

淡い期待と同時に、ちょっとだけ怖い気持ちもあります。

こんなことを言ったら不謹慎ですけど、あのおじさんはもうすでに

幽霊なのかも知れないと本気で思ってしまいます。

勘違いだったら、ごめんなさい。

 

 

 どうか、幸せな余生を。

白猫と幽霊おじさん、雨の日に桜並木は脆く儚く、

それでも力強く咲いていました。