東日本大震災から6年。

 今日で東日本大震災から6年目を迎えました。

震災があった日の僕は高校生でしたが、受験真っ只中で県外受験も考えていたため、

遠くの人たちの身に何かあっただろうと、常に考えていました。

それから6年後、震災後の時代を生きているという意識を嫌なほど感じさせられます。

今日に向けて"-Route 6 / 六号線-"という作品を描き上げましたが、

色んな想いが溢れて、時々手が止まってしまいました。

どこにいても、何をしていても、その意識が薄れることはありませんでした。

-Route 6-

  例えば買い物に行く時、農水産物も含めて原産地の確認が欠かせなくなりました。

内部被曝は食卓から始まりますので、特にキノコやほうれん草、根菜、乳製品、

魚には目を見張らないといけないのです。

自分の身を守るためにはそうするしかない、それに福島の農家の方のお話には

「自分のつくった野菜で誰かが体を壊して欲しくない」という言葉もありましたから。

 

 

 福島には帰れない、悲しい現実を認めるしかない。

子どもには滅多にないはずのガンも原発事故後はぐっと増えました。

放射能の影響で不気味な形の動植物も沢山生まれました。

問題は福島だけではなく、首都圏でもかつての広島・長崎原爆投下後の

原爆症と似た症状を訴える子どもたちが現れました。

多分、今もその状況は変わっていないと思います。

 

 

 こんな風に選択したり発言したりすると、必ず誰か一人は言うでしょう。

「それは風評だ」「差別だ」と。

 

 

 そうじゃない、福島原発事故は終わっていない、風評じゃなくて実害だ。

被曝から身を守ろうとするのは当たり前じゃないか?

原発事故後、被災地域への同情のために皆で被曝しろというのか?

放射能は目に見えない、形式だけの復興で放射能に溢れた地域に

小さな子ども連れで帰って元通りの生活をしろと?

冗談じゃない、人情芝居も大概にしろ!

 

 

 4・5年前辺りまではこんな怒りが強かったですし、今もその気持ちが残っています。

けれど今は、福島から避難してきた子どもたちが原発のことでイジメを受けています。

避難者へのある調査では、それを見聞きしたり実際にイジメを受けたと答えた人は

6割以上に上るというのです。

 

 

 「絆」を掲げた震災直後、今は様々な形で分断が起きています。

東北地域から避難してきた人たちだけではなく、震災について語ろうとする

人たちとの間にも、分断が起きています。

原発さえなければ、こんな大惨事にはならなかった。

どうして僕たちは無為な争いをしなければならないのか、悲しくて仕方がありません。

意見の問題ではありません、悲観的な現実も全部受け止めなければいけません。

そうしないと、また同じ過ちを繰り返してしまうから。

未来に対してのこの上ない罪は、忘却にあるのですから。

 

 

 

 

 

 僕たちは無力です、東日本大震災を迎えてから一層ハッキリしたことです。

変えられないものを受け入れながら、これ以上に状況が悪くならないように

選択する時が、もう迫っています。

原発なしでこの国を立て直せるか、避難者のための新たな故郷はどこにあるか。

クリーンなエネルギーを選び続けられるか、震災の記憶を語り続けられるか。

自由に問いかけて、自由な解決をこれからも探していく必要があります。

何より「被災者」「被災地」という言葉を僕はあまり使いたくありません。

そういう言葉を使うと、僕たちの住む場所から東北を切り離してしまうから。

出来れば「東北」という言葉も使いたくないですが、ここでは仕方がありません。

海も空も汚染されているのですから、日本のどこに住んでいても被曝はあります。

 

 

 この海も空も、地球のどこにも境界線はありません。

だからこそ、僕たちは決して孤独な人間ではありません。

誰のことだって、他人事にはなりません。

そう思って手を差し伸べ合えるなら、どれだけ未来や、

僕たちの心が豊かになるでしょうか。

例えもう一度バラバラになっても、何度でも手を差し伸べればいい。

忘れたなら思い出せばいい。

そうやって繋ぎ留める力が、弱くても僕たちの中にあります。

 

 

 僕も無力な人間の一人です。

それでもせめて、東日本大震災を記憶するためにも、

希望を絶やさないためにも絵を描き続けます。

 

 

 原発事故も震災も、まだ何も終わっていません。

今ここが、スタートです。