「個人」の歩幅<「公」の歩幅?

 先週の日曜日は余暇介助があり、東山動植物園に

利用者さんを連れて行くことにしました。

寒い気候と鳥インフルエンザの影響を考慮に入れても、

入園者が多く賑わっていたと思います。

障害のため言葉が話せない利用者さんが何を見て喜ぶか、どこでご飯を食べたら喜ぶか、

歩き方の癖から避けた方が良い地形はどこか、トイレは何分置きに行くべきか等々、

周囲の環境と利用者さんの様子を逐一目を向ける必要があります。

 

 

 動物園での余暇介助の中、たまたま見掛けた親子の会話が少し気になり、

今日まで暫く考えていた事がありました。

そのことについて、今日はお話したいと思います。

 

 

 先ず、こんな状況でした。

東山動植物園には植物園と動物園を繋ぐモノレールがあり、僕たちは

植物園から動物園へと乗り渡り、それから階段で地上へと降りようとした時でした。

モノレールは高い場所に線路が架けられていますので、階段から見下ろすと

かなりの高さがありますし、何より手すりの位置が高いので、

バリアフリーとしてはあまり良くないものでした。

 

 

 さておき、利用者さんが階段を降りる時は足元に不安があるため、

決まって左手で手すりを掴み、ゆっくりと降りていきます。

その利用者さんの前には幼稚園の年長さんくらいの男の子とその両親がいました。

男の子もまた、不便な階段と高所の恐怖に足がすくみ、たどたどしく歩いていました。

そこでお母さんが、男の子のたどたどしい歩き方のために利用者さんが階段を

降りる邪魔をしていると思ったのでしょうか、こう言いました。

 

 

「後ろに人がいるから急いで!なんで(階段を降りるのが)怖いの?」

 

 

 別に当たり前の対応だと思う人もいるかも知れませんが、僕には大変ショックでした。

お母さんは怒った調子で、それでも男の子は恐る恐る階段をゆっくり降りていました。

お母さんは利用者さんに「すみません」と謝り、僕が利用者さんに代わって

「いいえ、お気になさらず」と答えて、特に差し障りもなく階段を降りきりました。

 

 

 先にも書きましたが、僕らが介助に関わる利用者さんには様々な特性があり、

今日の利用者さんのように階段が怖くてゆっくり降りる人もいれば、そもそも

足があまり上がらないから段差がある場所を全く歩けない人、こだわりから

自分の好きな道順を選ぶ人がいますので、それぞれの特性に合わせた歩幅で

歩く必要があります。

 

 

 僕の言葉は専ら障がい者介助者の立場での考えですが、障害の有無に関わらず、

誰にでも得意不得意やこだわりがありますし、その現れ方も様々です。

ただ、例えば電車の中で大声で喋ってしまう利用者さんがいるなら、

注意をしたりもっと小さな声で話せるように介助者が誘導したりと、

周りに迷惑の掛からないようになるための行動も必要です。

 

 

 しかし、この誘導には限界があります。

先程にもあった、階段が怖い利用者さんについては元々の特性で仕方がないものなので、

これに関しては周りに理解して頂くしかありません。

もちろん、その説明責任は僕たちの課題です。

事は障がい者に限らず、あの男の子についても同じだと僕は思うのです。

要は「公」のために「個人」が圧殺される事があってはならない、ということです。

 

 

 人が沢山集まれば、それが「公の場」とは呼ばれますが、

突き詰めていけばこの世は結局「人の世」であって、

それ以上でもそれ以下でもないと思います。

周りの人に迷惑を掛けないのは当たり前ですし、それを心掛けて

行いを見つめるのはとても良いことです。

ただ、この「周りの人」はそのまま「公」なのかと言われたら、疑問符が付きます。

極端に言いますと、そもそも「公」とは実体のない概念なのかも知れません。

一人のワガママのために他の誰かが我慢する状況が「公」のせいとは言えませんし、

我慢するのが多数派か少数派か、それもあまり関係ないと思います。

 

 

 しかしながら、このような親子の会話があったのには正直悲しかったです。

動物園内は広く、所々で似たような親子の会話を見掛けることがありました。

別件ではレストラン外の立て看板のメニューが決まらずに立ち往生する

子供を親が急かし「さっさと決めなさい、(周りに)恥ずかしいじゃない!」

という類の会話でした。

「公」、実体さえ不確かなこの概念のために、奇妙な風景が広がっています。

 

 

 ふとした拍子で使ってしまう「公」という概念は時に、

大きな排外や個々人を束縛する大きな権力と繋がるという懸念もあります。

例えば「公」を「大きな人権」として、「個人」を「小さな人権」として

表現した自民党の日本国憲法改正草案もそうです。

「公(国の政策)」のために「個人(またはその集会など)」は我慢しろという状況は、

この恐ろしい憲法が発布されていない今でも、例えば沖縄の基地被害や福島を始めとした

原発立地区域、かつての悲劇的な公害においてこのロジックが使われてきました。

 

 

 敢えて大げさな例を取り上げましたが、小さな場所で見れば初めに話した

男の子が理不尽に怒られたようなことにもなります。

「公」がもたらすこの会話は不気味なものです。

 

 

 これを障がい者福祉という視点に移すと、障がい者を山奥の施設に

閉じ込める政策が行われているのも、この「公」の効力ではないでしょうか。

「公」という基準によって「普通の人」の定義をされる例には

特定秘密保護法における特定秘密取扱者の適性検査なんてものも挙げられますし、

この事については多くの医療・福祉関係者から批判されています。

実際、この「公」によって一種の住み分けをされる現実はここにありますし、

例を挙げたらキリがないです。

 

 

 最後に、僕のバイト先の理念に「障がい者施設は隔離政策である」

というものがあります。

日曜日の余暇介助、偶然に聞いた親子の些細な会話から社会を覆っている

巨大な力の姿を垣間見た1日でした。

 

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コメント: 2
  • #1

    タモガミ (金曜日, 27 1月 2017 22:34)

    よく考えてみると確かに「公」、実体のないそれに縛られてる、拘束されてるような気分は何度も味わったことがあります。福島県民だから原発の件でも色々と。「個人」が「小さな権利」というのは非常に的を得た表現だと思いました。
    本当に不気味ですね、考えてみると。この公ってものは。

  • #2

    婆娑羅桜火(管理人) (土曜日, 28 1月 2017 00:25)

    何時もコメント有難うございます!!
    なるほど、タモガミさんは福島県の方でした。

    実は学校の繋がりで、「原発銀座」と呼ばれるほど
    原発が集中立地している福井県敦賀(つるが)市の市議会議員の方の
    講演を何度か拝聴しまして、福井のような原発立地地域では
    原発について発言しづらい雰囲気があると聞きました。
    原発マネーで思考を奪われ、自治体を発展させるための想像力を
    奪われ電力会社や政府の言いなりになるという、恐ろしい事態が
    今も続いていると言います。

    「小さな人権」という表現は自民党の有識者が実際に
    口にしたものですが、以前の日録にも書いた通り、
    そもそも法学的に人権に優劣を付ける考え自体が有り得ないものです。

    それ以上でもそれ以下でもない人権の上に立ち、
    無意識をも支配しようとするそれこそ、ここでいう「公」なのかも知れません。
    「他人に迷惑を掛けるな」という「公の声」は、実際には
    現状に危機感を持つ人々によるデモ活動を非難するために使われましたし、
    現政権による極端なまでの沖縄叩きもそうですし、
    いま物議を醸し出している「共謀罪」として
    個々人の思想を踏みにじったりするために使われていると思います。

    こういう実情から考えると結局「公」とは、
    一部の人間にとって都合の良い人々の集まりだと思います。
    その中に僕たち個人も属しているのか、それは場合によっては怪しいので、
    日頃からよく考えないといけませんよね。