東京砂漠

 東京について書かれた紀行文は数多く、多くの人にとって

憧れの街であるのは今も昔も変わらないでしょう。

『東京讃歌』みたいな音楽も多くのアーティストが歌っていますし、

ドラマも小説も舞台は専ら東京、それだけ多くの人びとに感銘を与えたのでしょうか。

 

 

 よもや僕が東京について語ることはないだろうと思っていましたが、

二度目の東京を期に、書かねばという思いが一層強くなりました。

思い出とか紀行とか、そんな心地の良い言葉だけで表れるものではありません。

それでもこの拙文が何方かの目に留まるのでしたら、とても幸いなことです。

 

 

 僕が初めて一人東京を歩いたのは、2012年の2月中旬でした。

その時僕は受験期の高校生で、第一志望である都内の有名私大の受験のために、

先ずは東京で一泊することになりました。

その時親から携帯電話を借りて、初めて使い方を教えてもらいました。

メール操作や電話番号の打ち込みすら、たどたどしかったのは今や思い出です。

 

 

 少しの間、親元を離れて大都会での一泊。

試験のこともありましたが、一人過ごす夜はとても心細かったです。

しかし、その裏には情熱もありました。

合格判定では最低のE判定、教師たちからも「無理」だと

断言され続けた僕が今、大舞台を目前に控えている。

僕が東京にいた理由はただ一つ、自分を舐め腐った高校に

対する仕返しでしかありませんでした。

お前たちに将来を決めつけられる義理はない、今に見ていろ、と。

その高揚だけが、僕を東京に呼び寄せたのです。

 

 

 結果は不合格でした。

それは試験を終えた時から、何となく予想がついていました。

敗北を悟って、何故か全て吹っ切れたような解放感がありました。

不毛な意地っ張りをやっと脱ぎ捨てられる、今日まで迷惑させてしまった家族が、

こんなに暖かくて大切なものだったなんて、気付くのが遅すぎて申し訳がなかった。

長い戦いは終わって、やっと安心して我が家へ帰れる。

受験前夜とは全く別の高揚感に満たされていました。

 

 

 故郷、名古屋へ帰るまで幾らか時間があり、しばし東京観光を楽しむことにしました。

それと同時に、数々の懺悔と回心もしながら。

受験日の前年には東日本大震災があり、僕と同じくらいの年だった当時の

高校生たちも沢山亡くなりました。

受験生で心に余裕を持てなかった僕は、これが志望校の倍率を落とすきっかけとして

捉えて、申し訳なさげに好機だと思っていました。

不合格が確定した僕には、倍率など最早どうでも良いことでしたが。

 

 

 千代田区のビル群は煌々とネオンが眩しく、狭い空を誤魔化すような勢いでした。

去年はここで停電があって、多くの人々が交通難民となって一夜を過ごしたのでしょうか。

東京電力福島第一原子力発電所が爆発して、それから「ヤシマ作戦」と称して

順繰り計画停電をしたり、多くの方面で自粛していたあの日はどこへ。

 

 

 あれから1年、東京では余震が続きました。

僕が試験を受けている最中、会場となっている教室がにわかに揺れたのを覚えています。

2011年3月11日はまだ終わっていない。

勝手に終わらせたのはほかならぬ東京からだった。

ただただ、憎しみに似た感情が募るばかりでした。

この明かりのために、どこかで誰かが泣いている。

それに対して、誰も目を向けなかった。

名古屋では震災後の今も、赤字か節電のためか地下鉄の照明が半分くらいに

減らされましたが、東京の地下でそんな気配はなく、

びっしりと電球がはめ込まれていました。

 

 

 結局、自己満足したかっただけなのか、偽善者め。

その憤りは名古屋に帰ってからも、消えることはありませんでした。

そして1ヶ月後、その時抱いた憤りを胸に、

そして受験期の罪滅ぼしのために東北の地に足を踏み入れたのでした。

 

 

 

 

 

 

 それから4年が過ぎ、僕は今23歳。

高校生だった頃よりは知識も見解も少し大人らしくなったかも知れません。

そして、ひょんなきっかけから2度目の東京へ。

冗談交じりで「東京砂漠」なんて呟いたりもしましたが、

今思えば冗談ではありませんでした。

 

 

 聞きしの通り電車は何時も満員で、そこへ乗り込む姿に遠慮のえの字もなかった。

片手を差し向けて人混みを無言で切り開くか、肩からそのままぶつかりながら

割り込む老若男女、そうでもしないと電車に乗れないそうです。

街の中で何度か肩がぶつかりますが、その度に謝られた事は一度もありませんでした。

 

 

 参宮橋某所のゴミ捨て場で初めてネズミを見て、池袋の改札前では

吐しゃ物がひしゃげたまま放置。

ホームレスと思われるボロを着たおじさんが誰かに声をかけるような素振りで

キョロキョロと辺りを見渡していて、周りは煙たそうに距離を置く。

僕はただ、そこで立ち尽くすだけでした。

 

 

 クリスマスも近く、どの駅から降りても街は賑やかでした。

賑やか、というよりも喧しいというべきですか。

クリスマス・ソングがこんなに喧しく響く場所を他に知りません。

僕は幼少期から降誕劇を見ながら育ったので、クリスマスには特別な思い入れがあります。

もうプレゼントをもらう歳ではありませんけど、小さな町を救った赤子の誕生を、

心待ちにしないはずがありません。

この街の「メリークリスマス」には、そんな背景はなかった。

喧しい商売文句、どんなに包み隠しても本音は見え透いています。

 

 

 ただ、ここに集う人たちの心に触れてみたかった。

大勢の人がいて、交通網も発達しているのだから、何かあるだろう。

何でも叶いそうでも、実はそれは、とても遠く隔たれた幻だったのか。

 

 

 ただただ途方もなく歩いて、さ迷い込んだ歌舞伎町。

横断歩道で耳をすませると、言うべき人の真後ろで平気で陰口を叩く若い女の子が。

それが二度も三度も、思い通りにならないなら放っておけば良いだけなのに。

 

 

 中に人が入ったような精細な動きをするロボット、

どこか時代を間違えたような不思議な風景がありました。

外国人も多くて、久々の再会だったのかハグをする姿も。

桁違いな高級車から奥さんを降ろし、軽く挨拶をしてからエンジンを吹かす旦那さん。

異様な場所でも、こんな微笑ましい人間模様が垣間見えたり。

 

 

 僕の後ろからも声が掛かりました、「何を探してるの?」と。

特に探していない、適当に食べる所をと答えると、相手は更に踏み込みます。

「何かないはずはないでしょ、理由があってここにいるんでしょ?」と。

これは不味いと足を速めても、しつこく話しかける男。

歌舞伎町の客引きでした。

 

 

 あちこちの立て看板をよく見ると、客引きに注意するよう呼び掛ける内容でした。

タチの悪いことに、客引きは如何わしい案内所周辺で3・4人で構えていて、

手頃な人を見掛けてはしつこく呼び掛けるようです。

俺がそんな道楽人にでも見えたのか、お門違いも甚だしい。

挙げ句、純粋に話をしたいと立ち話をした後、

キャバクラの雑誌を手渡そうと迫られる始末。

持って帰るはずもなく適当に話を切り上げ、逃げるように足を速めました。

 

 

 気付けば僕は、街の人々を嫌悪の眼差しで眺めていました。

誰かと会うなら絶対に裏切られる、それが疑問から確信に変わりつつありました。

もうやり過ごすしかない、俯いて、見ない振りをすれば良い。

誰に対しても無関心でいなければ、疲れきってしまうから。

 

 

 大型家電量販店の見える交差点で声を掛けられました。

東日本大震災で被害にあった福島県浪江町のために募金活動をしている男性でした。

一先ず立ち止まって話を聞きながら、彼が義援金詐欺師ではないかと嫌疑さえしました。

実績があって、明細もちゃんと持っているか、男性の見せる活動報告の資料を

じっくり眺めながら、どうやら真面目に活動しているのだと納得しました。

少ないながらの募金を入れて、僕自身も東北へ足を運んだことも少し話して、

そして男性からは子供たちの甲状腺がんについての報告を聞かされました。

福島のあの悲しい情報は現実だったのか、落胆とともにその場を後にしました。

 

 

 男性から受け取った活動報告のチラシを片手に、彼を疑った事を悔いていました。

同じ志で東北に渡った人を、疲れた勢いで疑ってしまったことを。

都会の狂気に徐々に自我を蝕まれるのが、怖くて仕方がありませんでした。

仮にあと2・3日ここにいたら、僕も人混みの中の一人になったかも知れない。

そう考えると、恐怖以外に何もありません。

 

 

 疲れ果てた中でたどり着いた喫茶店で束の間の休憩。

ティラミス風のケーキとコーヒーを頂きながら、手帳にその日までの

出来事を書き記しました。

沈黙の時間、ようやく傷ついた心を休めることが出来ました。

それでも、傷口が何時開くかという不安とは常に隣り合わせでした。

 

 

 喫茶店を出ると、そのすぐ隣のビルの一回で無料の展覧会が

開催されているのに気付きました。

曲がりなりにも絵を描き続けている僕にとって、一つの拠り所となる場所でした。

東日本大震災のチャリティも兼ねた展覧会で、一点ものの絵葉書も販売されていました。

パステル画、ペン画、文房具に一手間掛けたキャラクターグッズ、オリジナルの怪獣の絵、

風景画に、ちょっとグロテスクな前衛作品も。

出展者たちの自由な世界が、大都会の小さなこの部屋の中で踊っていました。

クリスマスを題材にしたパステル画の作者の女性がそこに訪れていて、パステルの

魅力をお客さんたちに楽しそうに語っていました。

 

 

 僕もそこで少し出しゃばって、彼女と話すことが出来ました。

仕事の傍ら、絵を描き始めて割と間もなくインストラクターを

勤めるようになったということでした。

言葉にできない気持ちを絵に表す、心の奥底を解き放つ事を目的とした

「アートセラピー」について語ってくれました。

意味合いに差はあれど、僕自身の表現と本質が重なっていて、

久々に絵について語り合う時間を過ごしました。

名刺も受け取り、彼女の今後の活動がとても楽しみです。

 

 

 新宿駅で夕食のオムライスを食べ、残すところ2時間で東京を発つことになりました。

その間タワーレコードでCDを物色して、それからビル前の大画面テレビを眺めました。

タワレコの月間売上ベスト5が流れ、どの曲も大体似たようなものばかりでした。

「一人じゃない」「自分を信じて」「愛してる」「強く」

そんな言葉が羅列されただけの安っぽいラブソングと、

自己啓発セミナーみたいな音楽ばかりが上位を占めていました。

どうしてこんな詰まらない曲が?その理由が今になって分かった気がしました。

この街をずっとさ迷ったからこそ。

 

 

 いよいよ新宿発のバスに乗り、名古屋への帰路を辿ります。

喫茶店での手記を眺め、窓辺から遠ざかっていく東京の街明かりに目を遣る。

何故かその風景は、孤独と悲しみに満ちて映っていた。

この街で生きるというのは、どういうことだろう、と。

 

 

 

 

 容易く人を信じてはいけない、電車に乗る時も、ただ街を歩く時も。

道を塞ぐか、しつこく客引きをしてくるか、その程度でしかないから。

全ては等価交換で決められている。

信用も、言葉も、食べることも、ここで生きることも。

働いて、働いて、人の心など信じない、裏切らないのはお金の価値だけ。

だから人々は、何時も俯いていたのかも知れません。

無関心を装わないと生きていけないと、本気で思っているのかも知れません。

 

 

 それでも彼らは、温かい言葉と出会いを待ち望んでいます。

だから、安直な愛の言葉や励ましの言葉を、お金を出して買っているかも知れない。

サブカルチャーの役割は、きっとそういうものだったのでしょう。

お金さえあれば、ゲームでも漫画でもCDでも何でも買えますから。

言葉も心も、切り売りで対価を支払う商品でしかないのでしょう。

それ故に就活の失敗で自殺をするのも、人気アイドルの死を嘆いて後追い自殺を

するのも、ここでは納得できてしまいます。

 

 

 全ては消費され、そうやって毎日を食いつないでいる。

けれど消費されるのなら、後には何も残らない。

お金を出して買えるものは脆いものです、いずれは減価償却して

残存価値さえも失ってしまうのですから。

財布を開けても、漫画やゲームを買っても、すり切れるほどCDを聴いても、

自分の顔が見えるはずもない。

俯いた顔を上げれば、大勢の人がいる。

顔を上げるのがただ怖くて、誰とも触れることができないだけ。

だから幻の中で生きていようと、この街で溺れていくのでしょうか。

 

 

 誰にでも心があって、愛があって、そして祈っています。

ただ向き合うのが怖くて、儚いもので埋め合わせているだけ。

あなたはどこで生まれて、どんなものを見てきたか。

手と手を合わせて温もりを知ることも、言葉がなくても同じ場所で寄り添って、

同じものを見つめることだってできる。

幸せの定義なんて語ることは出来ませんけど、それは人の中にある

憧れや未知と触れることで、初めて出会えるものなのかも知れません。

 

 

 にわか都民の心地を味わった僕ですが、ここで暮らす人たちはもっと深く、

心に傷を負っているのかも知れません。

僕と同じ人間で、僕だってもう少し長くそこにいたら同じように

なっていたかも知れません。

他人事みたいにしか聞こえないなら、申し訳ありません。

 

 

 思い出として語るにも後味の良くない話ばかりでしたけど、こうやって

東京の人たちの気持ちに少しだけ触れることができて、嬉しかったです。

それまで僕は多くの誤解をしていたのですから。

 

 

 最後まで長文を読んで下さり、有難うございました。

書くだけ書いて、結論すら用意できず申し訳ありません。

落ち込んで塞ぎ込んで、一人になる時があっても良いんです。

塞ぎ込むのに飽きたら顔を上げて、大きくひと呼吸すれば、

そこに誰かがいるかも知れません。

 

 

 理由は要らない、手ぶらのまま、ただ一緒に過ごす時間があれば、

明日はちょっとマシになったりして。

そんな事を思いつつ、本文を締めさせて頂きます。

またどこかで、会える日を。