憲法と個人 その二

 身の回りの事もあり、気付けば月も変わってしまいました。

遅れあそばせながらの更新ですが、本日の日録は先月に引き続き、

日本国憲法と個人との関係に向き合うべく、書かせて頂きます。

それにしても毎度この手の記事を書こうと思い始めた頃にひょんなニュースも飛んでくる

わけで、臨時国会での首相の感情論むき出しの発言には呆れるばかりです。

行動と発言の矛盾は今に始まった事ではないですが、お外の国には見せられない姿です。

状況はともあれ、問題意識を持つためには何がどう変わろうとしているかを

確かめるのがとても大切だと思います。

 

 

 

 先ず先日のポイントとしては、憲法13条において個人とは尊重されるべき存在である

明文で定められ、その尊重すべき個人の生き方に対して様々な選択肢を与え、

支えるのが政治の役割である、というものがありました。

民主主義の原理を考えるならば、これが最も理想的で至極真っ当な考えであることが

わかるかと思いますが、その裏付けを改めて確認することが大切です。

 

 

 

 しかしながら、今の政治はそのような理想を実現していると言えるのでしょうか。

特に東日本大震災を境に、これまでになく強力な与党一強の元で様々な政策が強行され、

権力を縛り、政治の磐石を成す憲法にさえも手を加えようとしているわけです。

そこで今回は自民党による憲法改正草案に見る、個人の在り方がどのようなものなのか、

一緒に確かめていきたいと思います。

現行憲法との比較のため、お手元に自民党改憲草案をご用意致しましたので、

こちらも合わせて読んで頂ければ幸いです。

 

 

 

 先ずは前文からの比較ですが、現行憲法においては戦争の放棄・国民主権・恒久平和

の三本柱があり、更に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」

という決意表明とともに、この憲法は、かかる原理(上記の三本柱)に基づくものである。

われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と、戦争を始め平和への

脅威は政府の行為によるものとして、政府の行為を監視・制限する役割があることも

明言されています。

これは戦争を始め人間の尊厳を踏みにじる将来現れるであろう悪政への

永久的な歯止めとして、実際に戦後の政治に対して機能を果たし続けました。

(小泉政権による自衛隊のイラク派兵は名古屋高裁において明らかな憲法違反で、後方支援についても武力行使とみなされましたが・・。)

 

 

 

 では、自民党改憲草案においてこの前文はどのようになるのでしょうか。

現行憲法と改憲草案の前文を比較すると、先ず

主語が「日本国民」から「日本国」に変わっています。

さらに後半の記述に注目してみると、このような内容があります。

 

 

 

「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 

 

 

 これは現在議論されている国防を暗にほのめかす記述ともとれ、

協調性を良しとする旨を明文化しようというのです。

そもそも憲法にかかる責務が国家ではなく国民に向けられている事が大きな違いです。

人権尊重と社会保障が国民の責務・・、これをどのように読むべきでしょうか?

現在進められている政策を追いながら、この意図を読み取っていく必要があります。

 

 

 

 さらに進んで条文も注目してみましょう。

先ず憲法13条ですが、現行憲法では「全て国民は、個人として尊重される」とありますが、

改憲草案では「すべて国民は、人として尊重される」となり、更に幸福追求についても

現行憲法では「公共の福祉に反しない限り」とありますが、改憲草案では

公益および公の秩序に反しない限り」となっています。

 

 

 

 現行憲法における「公共の福祉に反しない限り」の趣旨を読み解くと、

しばしば個人と個人の人権がぶつかる事態があり、そのぶつかり合いを話し合いや

譲り合いで解決していく事、つまりプライバシー調整の目的があります。

 

 

 

 ところが改憲草案における「人として」「公益及び公の秩序に反しない限り」の

人権とは、「他人(公益・公の秩序)に迷惑を掛けてはいけないのが当然だ」という

解釈が可能で、そのために個人の人権が著しく制限されるのは仕方がない

という意味にもなります。

 

 

 

 改憲案に対する質問に対する実際の答えの一つで、

「国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため

必要な範囲でより小さな人権が制限されることもあり得る」とあります。

 

 

 

 つまり、「公」という大きな人権と、その他の小さな人権を

国家によって区別されるというのです。

ここで既に、個人とは公の下の存在として扱われてしまいます。

そもそも、法学的に人権に優劣を付けるという考え方そのものが有り得ないことです。

 

 

 

 今回も長文となりましたが、少しでもお読み頂けたら幸いです。

「公の下の個人」という理論がまかり通った社会とはどのような姿なのか、

次回の日録にて書いていきたいと思います。

 

 

 

 本日この記事に目を通して下さり、本当に有難うございました。

新しい記事を書くのに今しばらく時間が掛かりますが、どうか宜しくお願いします。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    タモガミ (金曜日, 14 10月 2016)

    解釈の仕方次第で、知らぬ間に人権を制限されていく、と考えると恐ろしいですね。憲法9条なんて元の解釈を政府側で勝手にガンガン変えてってますもんね…
    非常に参考になりました

  • #2

    婆娑羅桜火(管理人) (土曜日, 15 10月 2016 00:37)

    コメント有難うございます!!
    問題意識を持ってこの場でコメントを頂けて、とても嬉しいです(^^)

     9条が変わってしまう、というのが改憲問題の中心であるかのように
    よく言われますが、単に戦争が出来る国家を作るためだけでなく、
    本来権力を縛るはずの憲法を、主権者である国民の権利を著しく制限するために
    書き換えようとするのは大変恐ろしい事態ですし、権力の規制緩和を議論もなく行うとは、
    戦後ここまで危険な政権はないと思います。

     ですが改憲議論を期に、本来の憲法を見直してみると、先人たちは未来永劫の
    平和のためにとても賢い文章を考えてくれたなと思いますね。

     特に前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と
    「この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、
    法令及び詔勅を排除する」という部分はとても励みになりますし、
    これを読むとこのような議論を独断で行っている現政権は既に違憲状態だと分かります。

     次回も「憲法と個人」をテーマに、特に憲法13条が改訂された日本が
    どのような姿なのかをまとめていきたいと思います。