憲法と個人 その一

 普段、各新聞社の紙面をご覧になると分かると思いますが、

今年で安保関連法の成立から一年が経ちました。

与党による数の力で各法が強行採決された衝撃は未だに信じがたく、平成生まれの

人間として、これほどまでに独裁的な国会風景は今まで目にしたことがありませんでした。

先日の話となりますが、首相の所信表明演説を前に与党議員が一斉に起立し拍手するという

これまた異常な風景がありました。

 

 

 そして先々週、沖縄での基地移設に伴う埋め立て工事の承認を巡り、

沖縄が敗訴しました。

かつて『標的の村』というドキュメントを観た事がありましたが、故郷を基地のために

奪われ、オスプレイの着陸用ヘリパッドの建設工事が強行された時、「平和が遠くなった」

と涙した人たちの姿を忘れる事が出来ませんでした。

 

 

 

 安全保障という言葉の裏に何があるか、それについて僕たちも決して

無関係ではない事を改めて考える必要があります。

その一方で今も10万人を超えるデモ隊が国会を取り囲みながら声を上げています。

彼らは東日本大震災を経て、危険な時代への逆行へ抗いながら結束と非暴力をもって

かつて官僚との対話を実現させました。

逆に言えば一人一人が考えて行動し、分かち合いながら社会を作り変えて行かなければ

ならないほど、事態は深刻になっているとも言えます。

 

 

 

 暫くぶりの日録となりますが、今回は今年の6月に名古屋で開かれた

若い女性の弁護士による憲法に関する講演会の一部を紹介したいと思います。

とても内容が多いので、本日はその第一弾からお話します。

 

 

 

 さて根本的に、日本国憲法の元で生きるとはどういう事なのでしょうか。

先ずはとても身近な所から考えていきたいと思います。

根本的に日本という国で生きる上で、日本国憲法や政治は決して不可分な

ものであることがとても大切となります。

 

 

 

 その第一歩として、例えば日本国憲法13条があります。

日本国憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される」と、明言されています。

これの意味するものとはどんな事なのでしょうか。

「個人として」とは、それぞれの個性(出自や民族、性別や思想、信教や障害、

得意や不得手、夢やこだわり)を持つ「私」は、それだけで価値のある存在である

という意味があり、つまり憲法13条は個人は尊厳ある存在として、それぞれの

人生が尊重されることを名文として保証しているのです。

 

 

 

 もちろん、これは憲法という全ての法律の骨子となる根本的な考えであって、

それぞれの個人の利害が対立する場合があるわけですから、憲法を中心に枝分かれした

種々の法律が、それぞれの権利保護や利害調整を行うことになります。

 

 

 

 話を一歩進めて、それぞれの個人を取り巻く政治や政策とは何かを考えてみましょう。

前に申しました通り、僕たち個人はそれぞれの思想や夢を持ちながら生きていますが、

そうした僕たちの人生の選択肢を確保するための社会制度を作り、実施していく事が

すなわち政治というものになります。

 

 

 

 例えば、学校で学びたいという人のために学費の無償化や奨学金制度があったり、

子育てと労働の両立のために保育園の政策があったり、職場における健康と安全を

守るためにブラック企業の規制もあります。

或いは収入源が途絶えてしまった時のための生活保護や年金もあります。

 

 

 

 しかしながら今日では特に安保法案を巡って憲法9条のことが取り沙汰される

ことが多いですが、現在行われている自民党による憲法改正草案の問題はそれらに

限らず、個人として生きる僕たちの在り方を揺るがしかねない危険があります。

そのことを考える以前に、先ずは憲法が思い描く個人の在り方を確かめる必要が

ありましたので、これを元に次回は今日の改憲問題の核心について考えていきたいです。

文章のスタイルが変わって読みづらいところがありましたら申し訳ありません。

こんな文章でも、一歩立ち止まって考える機会になれれば嬉しい限りです。