これが共生社会?

 リオ五輪が閉幕し、いよいよパラリンピックが開催されようとしています。

こちらの方が幾分注目されないというか、そういう所が残念に思うこともあります。

先日NHKではパラリンピックについての手短な紹介がありましたが、その中で

解説では選手の特技だけではなく、どのような障害を持っていて、それがどのような

ものなのか、という部分にも焦点を当てることが表明されました。

確かに、これが障がい者の存在についての認知度向上に一役買うかとは思いますが、

それ以前にとても大切な点が見落とされていることにはあまり触れられていないようです。

今日の日録では、このことについてお話したいと思います。

 

 「障害があってもスポーツができる」という希望をパラリンピックが体現している

ようですが、この方法や考え方自体に問題があると思います。

先月は相模原市で障がい者施設が襲撃される痛ましい事件が起こりましたが、

両者は意外と似通った考え方が背景にあると思います。

そのことに気付かされたのは、全盲と全ろう(耳が聞こえない)の重複障害を持つ

東京大先端科学技術研究センターの福島智(さとし)教授が毎日新聞に宛てたメールでした。

 

 ここで教授は先ず、ナチスドイツによるホロコーストで20万人もの障がい者が

尊い命を奪われたことに言及しました。

ナチスドイツによる虐殺については、当事件の容疑者を諌めるための例示として

当施設職員の方も言及していました。

ナチスドイツによる虐殺と、相模原の事件の根本には極端な国粋主義や優生思想があり、

虐殺の意義は単に命を奪っただけに留まらず、障がい者の尊厳を踏みにじる思想を

拡散してしまったと言います。

これは障がいの有無に限らず、今日の資本主義における労働力としての人間の序列化でも

同じことが言え、究極的には強者が弱者を駆逐する思想を支えているのです。

 

 さて、ここで話をスポーツに戻します。

スポーツは究極的には競争で、当然能力の高い人から選ばれるわけです。

パラリンピックでは「障害があってもスポーツができる」という希望を与えるように

一見感じますが、それは僕たち「いわゆる健常者」の求めるような水準に達したごく一部の

人たちの事で、他の障がい者の存在がまるで無視されているのではないでしょうか。

一口に障がい者と言っても色んな特徴があって、身体障害だけではなく知的障害もあり、

同じように定義された障害でもその人ごとの特徴があります。

例えばてんかん発作でも、けいれんしながら倒れる人もいれば

力が抜けるように倒れる人もいますから、一括りにはできません。

生まれつき言葉も話せなくて、寝たきりのように過ごす方々もいらっしゃります、

スポーツ以前に食事さえも介助がなければままならない方もいらっしゃります。

その一方で、僕たち「いわゆる健常者」の中でもスポーツが上手では無くて

このような舞台に立てない人は沢山いるのだから別に問題ないのでは?

とも言われそうです。

とは言え情報の拡散もその方法が偏ってしまえば、僕たちに障がい者に対する

固定観念が植え付けられてしまう危険があります。

繰り返しになりますが、障害とは身体障害や知的障害もありますが、

その現れ方は十人十色で、これといったイメージだけでまとめられるものはありません。

何よりも同じ人間として、立場や性格の違いもあって、それぞれの幸福追求があって、

そのためにお互いに協力し合う場所はどこにでもあります。

それだけは忘れて欲しくないです。

 

 もうひとつの批判では、そもそもオリンピック(いわゆる健常者)と

パラリンピック(障がい者)とで区別すること自体が既に差別を助長しているのでは、

という考え方もありました。

棲み分けがされているという問題についてはパラリンピックの他に障がい者授産施設も

その一つですし、実際に障がい者授産施設は障がい者の隔離という人間の尊厳を

踏みにじるものだとして廃止も進められています。

 

 ここまで種々の話題を探ってみると、もはやパラリンピックに賛成か反対かを

一言に結論を出すのは難しいです。

或いはごく小さな枠組みだけで考えるとそうなってしまうのかも知れません。

障がい者の存在の認知度向上には多少たりとも繋がったとしても、パラリンピックは

その先にある障害の有無を問わず共生する社会の表現としてはまだまだ未熟だと思います。

 

 では何が理想か?

ここで一つ提案しますと、一番足の遅い人の歩幅に合わせる社会だと思います。

言わば今日の資本主義とは真逆の考え方だと思います。

優生思想を突き詰めれば、誰でも弱い立場となり駆逐されるからです。

例えば人は歳を取り、今までのような自由な身体の動きを失ってしまいます。

この時点で既に、ある方向から見れば弱い立場です。

不慮の事故だって考えられるわけです、一寸先は闇とはよく言います。

そして生まれたばかりの赤ちゃんも弱い立場の最たる存在です。

果たして今、そういう人たちを守れるような社会はできていると思いますか?

一部の人は肥え太り、大勢は貧困に苦しみます。

欲望は尽きず、時間さえもお金に換えられ、塩水のようなお金を渇望する人たちの

末路は決して幸福なものではないと思います。

結局自分たちで精一杯の、本当に狭い人生になってしまうと思います。

 

 けれど人間はお金や物質だけで生きられる存在ではありません。

それを確かめるために、人間同士の助け合いが必要になりますが、

それは決して簡単なものではありません。

わずか数センチの段差を登れない人のために手を差し伸べたり、麻痺があって

言葉が上手く話せない人の言葉に耳を傾けたり、足元はふらついているのに

無理に走ろうとする人が転ばないように制止したり、一つ一つはとても地味なものです。

その地味な一瞬の中で、人間として求めずにはいられない自己実現や愛が姿を現します。

これは体験しなければ絶対に分かりません。

今日、大勢の人々は孤独で常に何かに追われて逃げるように生きています。

だからこそ、歩幅を合わせるゆとりが必要だと思います。

何かをしてあげる「ボランティア」ではなく、人間性のために。

障害の有無や様々な違いを超えて、人々が生活する社会を僕は望んでいます。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    タモガミ (木曜日, 01 9月 2016 23:27)

    そのようにパラリンピックについて真剣に考えたことがなかったことを深く恥じました。確かに、パラリンピックと健常者のオリンピックとを分けること自体が、差別をより悪化させているというのには、首を縦に振る他ありません。
    そして障がい者も皆人それぞれで症状も違う、十人十色であるということ。
    本当に勉強になりました

  • #2

    婆娑羅桜火(管理人) (土曜日, 03 9月 2016 02:03)

    気づくのが遅れてしまいました、コメント有難うございます!!
    正直、この記事を書いて表に出して良いか迷った時がありましたが、
    賛否両論あっても一つ投げかけたい思いで記事にさせて頂きました。
    特に相模原の事件を受けて、容疑者の精神状態についても諸説あったり、
    この事件を裏で助長させた差別的な思想がありました。
    どんな捉え方をされようとも、そのような考え方が今も残っているのは僕たち一人一人の
    責任ですし、個人の幸福観は誰かに決めつけられるものではないです。

     ネットで平気で彼らに対する侮辱を連想させる書き込みをしたり、
    タダ飯を食っているとか勝手なイメージを撒き散らしたり、結局は裏表でも
    そういうことをやっている人間もいますからね。

     理想は高齢者や障がい者と呼ばれた人たちと一緒に関わる場所と
    時間を作って行くことから始まるでしょうね。
    言葉で言っても伝わりませんし、経験しなければ伝わらないことですから。