いよいよ本格的な夏が訪れました。
僕の住んでいる地域でも梅雨があったり、急な夕立ちがあったりと
落ち着かない天気に悩まされます。
一方で今週初めは数匹くらいしか見なかった蝉も、今や大合唱を奏でています。
緑も生い茂る、生気溢れる季節の到来ですね。
暑さをしのぎながら外を歩くと、足元の草花に蝉の抜け殻を見つけます。
そのすぐ隣に、もう動かなくなった蝉が横たわっていました。
あまりにも儚い命でした。
今鳴いている蝉のうち何匹かが、明日にはいなくなってしまうのかな。
そんなことが不意に頭をよぎってしまいます。
今から十数年ほど前、確か小学校四・五年生だった頃を思い出しました。
兄と近くの緑地で遊んでいて、多分ザリガニ釣りか何かをしていたのだと思います。
その帰り道、とても近い所から小鳥がしきりに鳴くのが聞こえました。
どこかと見回すと、僕のすぐ足元にまだクチバシの黄色い赤ちゃんスズメがいたのです。
恐らく巣から落ちて戻れなくなったのでしょう、まだ飛べるほどに
体が育っていない子スズメでした。
すぐにその子を両手に包んで家に連れて行き、水を飲ませました。
とても良い飲みっぷりで、もちろん両親からもとても注目されていきました。
鳥を、しかも赤ちゃん鳥を飼った経験がなかったので、先ずは母がインターネットで
餌の与え方を調べてくれました。
小さく砕いた豆類を差し出すと、羽をバタつかせながら黄色いクチバシをいっぱいに
広げていて、その姿は無邪気で可愛らしかったです。
僕たちが寝る少し前には、ティッシュを敷き詰めた小さな箱に子スズメを
入れてあげると、お腹も満たされて安心した寝顔をのぞかせていました。
「おやすみ、スッピー」
兄とは言い合いになりながらも、二人で出し合った名前を合わせて
その子にはスッピーという名前が付きました。
眠るその姿が可愛くて寝るのも惜しかったですが、母の催促もあったので
ほどほどの所で僕も寝床に着くことにしました。
その翌朝は早起きでした。
誰よりも先にスッピーが目を覚ます瞬間を見たかったからでした。
けれどスッピーは僕たちよりも早起きで、
朝ごはんを欲しがってピィピィと鳴いていました。
もちろん、当時の僕たちは幼い兄弟でしたので餌をやる順番でもみ合ったりもしました。
箱から出して、畳の上に立たせてみると今にも飛び立ちそうな立派な姿でしたが、
スッピーはまだ飛べない赤ちゃんでした。
小さな棒や指先を目の前で振ってみると、またまた羽をバタつかせながら
黄色いクチバシを広げていました。
人間よりも温かい体で、試しに体温を測ると四十度近くもあって、
それに驚かされたのを覚えています。
お昼ご飯を済ませた頃、その日は曇りだったので涼しく過ごしやすい時間でした。
思い切って僕たち兄弟は、スッピーと一緒に近くの公園で遊ぶことにしました。
外見はやっぱり普通のスズメ、それでもちょっと違うところがあるなら、
体が小さかったことと、その場で座り込んだりするところでした。
ピィピィと細い声を上げながら、思ったよりも動き回ることが少なかったけれど、
ネコジャラシや細い草の葉や僕たちの指が揺れるのを見ると、
相変わらずはしゃぎ回りました。
言葉も通じないのに、体の大きさも全然違う僕たちなのに、
小鳥にこれだけ心を許してもらえたのが嬉しくて仕方がありませんでした。
夕暮れが近づくと少し晴れ間がのぞいて、オレンジ色の夕日が顔を出しました。
スッピーは少し疲れていて、僕の手の中でゆったりとしていましたけど、
一緒に見たあの夕焼けは、その夏の一番の思い出になりました。
僕たちの晩ごはんを終えて、スッピーもごはんを終えると昨日のように
小さな箱の中に入れてあげました。
遊び疲れたのか、少し眠るのが早かったかな。
そう思えば急に起き出して、ピィピィと甘えたように鳴いたりもしました。
夏休みももうすぐ終わる、それまで一緒にもっと遊ぼうね。
そんな思いを踊らせながら、今夜も眠りに着きました。
思い出せば、その夏は冷夏でした。
そのことを、今も忘れることができませんでした。
その翌朝、僕よりも早くに母が目を覚ましていました。
僕は目を覚ますと、真っ先に母の顔が飛び込んできました。
「死んじゃった。」
その一言で、僕は布団から飛び出しました。
嘘だ、そんなはずがない。
例の箱の中を覗いてみました。
目を閉じたまま、もう動かなくなっていた。
体も冷たくて、固くなっていた。
初めてスッピーと出会った日、黄色いクチバシを広げて甘えていた姿、
つぶらでキラキラしていた瞳、安らかに眠る顔。
全てが走馬灯のように流れて、せき止めた思いが一気に溢れ出しました。
オロオロと布団に潜り込んで、もうそこから出たくなかった。
「埋めてきて」
涙声を絞って、僕はその先を見届けることが出来ませんでした。
信じたくなかった、どうしてそんなに早くに。
スッピーをお墓に埋めた後、母はそっと言いました。
「小さい鳥は、自分で体温を保てないから寝る時もずっと
親鳥がそばで面倒を見るんだって。
お母さんがもっとしっかりしていたら」
母も悲しい気持ちを抑えるので必死でした。
冷夏は過ごしやすい夏だと思っていたのに、
この夏が僕にとって、一番嫌いな季節になってしまいました。
どんな思いで寒い夜を過ごしていたのか、ずっと僕たちの
助けを求めていたのかも知れない。
それなのに、僕は何もできなかった。
その晩も悲しみは消えませんでした。
元気出して、と母は慰めてくれて、僕たちが好きな料理を振舞ってくれました。
鳥の唐揚げ、こんな時に鳥の肉なんて食べたくなかった。
母の作った唐揚げはいつもおいしかった。
それでも、お腹いっぱいまでに食べることはできなかった。
もう何も、分からなくなってしまいました。
それから数日が経ちました。
悲しかったことはそろそろ忘れることができましたけど、どこかでスズメが鳴くと
ついつい振り向いてしまいます。
全然違う鳥なのに、どうしてもスッピーと重ねて見てしまう。
どうして僕たちは出会ったのかな。
こんなに短い命だったけど、スッピーは幸せだったのかな。
今は天国で、美味しいごはんを沢山食べているのかな。
僕たちのことを、覚えていてくれるかな。
わからなかったけれど、不思議と元気が沸いてきました。
なんて言えばいいのかな、小学生だったあの日も今も、
その気持ちを表す言葉が見つからない。
本気で信じられないけど、天国があったら。
天国に行けたら、もう一度スッピーに会えるのかな。
・・・・・・。
あの蝉は何を思って生きていたのか、僕にはわかりません。
それでも僕たちが知らないところで、何かをまっとうしたのかも知れない。
生まれたならばいつかは死ぬ、残酷な定めを創った神様は本当に怖いと思いました。
それなのにどうして、感謝しているのかな。
言葉にならないから、言葉はもう要らない。
それでも僕は、こうやって言葉を使って思い出している。
こんな矛盾だらけを、神秘というのかも知れない。
小学生だった僕も、これを今書いている僕も、やっぱり同じ僕だったんだね。
忘れたくないから、ずっと忘れない。
今日は透き通るような、快晴の青空でした。
どこへでも行けてしまう気がした、とても不思議な気持ちでした。
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