創作という行為について

 今も制作を進めているわけですが実に・・・筆が重い(ーー;)

因みに現在"-Forever Blossom-"という作品の制作をしておりまして、

二年ほど前の同名作品のリメイクとなっております!!

そういえばいつぞやの日録で「次回はこれだ!!」と断言しながらも、

またまた浮気をしてしまったな・・。

その中には合作もあって、とても申し訳ないことをしている限りです・・。

 

 

 二次創作としてのファンアートから離れてから意識的にかなり自由となった一方、

やはり作品としての足場が少し浮つくような気がします・・。

例えるならば初めて補助輪を外した自転車に乗るような感じですね(^_^;)

作品の構想も自分自身で支えなけらばいけませんし、一度は納得しても後日に改めて

確認すると「これのここがちょっと・・」と思って加筆修正することがとても増えました。

それは無形のものを取り扱う作業でもありますので、

そもそも計画通りなんて無理なのかも知れませんね。

・・・・っとこんなことを言ったら確実に怒られますかね・゜・(ノД`)・゜・

しかし大変になった一方で、作業が今まで以上に充実したのも事実です。

 

 

 ただ、本質的な所は何も変わっていなかったようです。

これは繰り返し申すことですけど、絵もそうですし僕たちが話したり書いたりしている

「言葉」というものには何時も責任が付きまとっているという意識があります。

昔の人が「言霊(コトダマ)」という神秘的な呼び方をしたように、僕らが発した

全ての言葉には魂が宿りますから、その意識を持って緊張が高まります。

いい加減に扱えばその言葉に潜む魂は嘘をつきませんから、やっぱり本音は

バレてしまいますからね。

 

 

 でもまぁ、やっぱり人間ですからたまには建前で八方美人になったり、

面倒くさいからナアナアにして投げ出してしまうこともありますから、何時までも

綺麗なまま生きられないなと思い知らされます。

それでも、このだらしなさを少しだけ取り除いて、言葉の限りを尽くして

心を洗い清めたい想いがあります。

出来ればそれが自分のためだけではなくて、誰かと共有できたらなと何時も思います。

 

 

 絵を描く、音楽を作る、詩や小説を書くという行為はネットを介してより

幅広い人たちにとって身近な行為になりましたし、それらを共有するためのコミュニティー

も広く整備されてきたと思います。

ですが、そこで時々立ち止まって考えることも多くなりました。

 

 

 発信者という立場になると、僕たちは誰かに耳を傾けることを

忘れてしまうのではないか。

創作の主こそが偉大で、それを観る人たちはそれらに従うだけの立場なのか。

 

 

 それは違うと思います、あまりにも不公平でキャピタリズムな考え方だと思います。

根本的に創作物が存在を許されるのは、作者という存在がいるからだけではなく、

その創作物の存在を確かめさせてくれるもう一人の人間がいるからこそ。

どちらが偉いかとか、決め付ける方が間違っていると思います。

 

 

 それに創作という言葉こそありますが、作者は「創る」こと、つまりゼロから

ある物事を生み出すことはできないからです。

創作という行為をする時、色や音、様々な要素を借りながら行いますので、

それは「創る」と呼ばず、数々の要素を組み立てるから「作る」と呼びます。

だからこそ、創作を支える全ての事柄に対して、

寧ろ謙虚であって、感謝する姿勢を忘れてはいけません。

 

 

 芸術における本来的な謙虚さが、今や忘れられつつあるように感じます。

それ故に苦しむ人もいると思います。

初めに戻りますが、創作によって生み出される様々な「言葉」があります。

それらは自己満足のためではなく、本来人に何かを伝えるという大切な役割があります。

確かに、言葉と通して何かを伝えたいというのは今も変わらないと思いますが、

その捉え方がネット社会になってから幾分変わっていったと思います。

 

 

 一方的なものになったと思います。

言いっ放しにしてそこから発展しない、それこそが問題ではないですか。

LINEやfacebook、TwitterのようなSNSはとても便利です。

色んな物事を瞬時に、どこからでも発信できるからです。

でも、連絡先が気に入らないからとすぐに絶縁してしまう人間も出てきています。

そこで実際の人間も、もはやネット世界上の記号としてでしか扱わなくなる

事態も実際に起きています。

そこで飛び交う言葉は、創作は一体どうなってしまうのでしょうか。

 

 

 日本は江戸時代に寺子屋があったお陰で現在も識字率が世界一で、

多くの人達が高い水準の学識を持っています。

道具の使い方もとても理解できています。

ですが、それと人間性とはまるで別物であるかのように切り離されている気がします。

対話に関して、とても不器用になってしまったと思います。

日常会話の言葉一つをとっても、相手の顔を見て言っているのでしょうか。

創作という行為の目的は一体何なのでしょうか。

もう一度、それらを確かめる必要があると思います。

 

 

 僕たちは一人では生まれることさえも、生きることさえもできません。

一期一会があって、僕たちの名前を呼んでくれる人がいるから、

僕たちは僕たちとして生きていられるんです。

ですから、僕たちの顔を見て名前を呼んでくれる人たちの顔を見て、

名前を呼んでそれに応えていくべきではないですか。

 

 「好きになってよ」の売り合いだけでは、僕たちは絶対に分かり合えません。

友情も愛情も、二人の名前の間から生まれるのですから。