沖縄慰霊の日

 6月23日、今日は沖縄慰霊の日です。

太平洋戦争における激戦地となった沖縄での地上戦が集結した日と定められ、

沖縄の人たちにとっては本土における8月6日の広島原爆、8月9日の長崎原爆

投下の日と同じくらいに鮮烈な印象を持つ日です。

一体、沖縄戦とはどのようなものだったのでしょうか。

沖縄慰霊の日 アトリエ-婆娑羅-

 沖縄戦では、第二次大戦末期の市民を巻き込んだ地上戦が行われました。

第二次対戦の開戦以来、快進撃を続けた日本軍でしたが、

昭和17年6月のミッドウェー海戦の敗北を期に後退を余儀なくされ、

南大西洋にある基地も次々に占領されていきました。

その後退の末ついに、本土防衛の最後の拠点として沖縄が選ばれました。

 

 

 一方米軍は本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、

同年10月10日に沖縄本島に大規模な空襲を行いました。 

昭和20年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕し、

これにより米軍は太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて結集し、

3月26日慶良間列島に上陸した米軍は、4月1日に沖縄本島に上陸し開戦。

 

 

 この戦闘は、6月23日未明に第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決したことで、

組織的戦闘は同日に終結したとされていますが、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも

局地的には引き続き戦闘が行なわれていました。

南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは9月7日のことで、この約3‐5ヶ月の間の

戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、

一般住民約10万人を含め約20数万人に上ると言います。

沖縄戦 アトリエ-婆娑羅-

 愛知県某所で行われたシンポジウムでは、元沖縄県知事で沖縄戦の生き残りでもある

大田昌秀さんがとても貴重なお話をして下さりました。

 

 

 第二次世界大戦とそれ以降の戦争は、それ以前の戦争とは決定的に

違うものがありました。

第一次世界大戦以前の戦争では死者の95%は軍人でしたが、

第二次世界大戦とそれ以降の戦争では死者の95%が一般市民でした。

一番弱い立場にある人たちが大勢殺された戦争でした。

広島、長崎の原爆が市民の真上に投下されたのと同じように、沖縄戦もまた、

日米両国に挟まれて多くの尊い命が犠牲になりました。

 

 

 略歴としては4月1日に開戦、6月23日に終戦したとされる沖縄戦ですが、

その前後の事柄について言及されていないため、この二つの日付だけでは沖縄戦を

正確に捉えていないと大田さんはおっしゃりました。

 

 

 組織的戦闘が開始される4月1日以前の3月26日に慶良間諸島では住民の手榴弾などに

よる大量集団死が起こり、その死者には乳幼児も含まれていました。

そして戦闘が終了したとされる6月23日以降の6月27日には久米島で住民の

大量集団死が起きました。

約20名がスパイ容疑で射殺された事件でした。

そのうち8名は子どもで、うち1名は1歳2ヶ月の乳児でした。

 

 

  一体何があったのか。

沖縄戦は、戦闘が始まる段階で既に玉砕することが決められていました。

当時、本土の防衛体制の構築が間に合わないために、一日でも長く米軍を釘付けにする

必要があったとされました。

その裏付けとして、6月22日に自決した牛島中将(6月23日は沖縄戦の組織的戦闘の

終了と牛島中将の自決した日とされていましたが、実際彼が自決したのは22日で、

牛島家でもこの日を命日としています)は「軍と民は共に生き、共に死ぬ」(共生共死)

を唱えました。

しかし「県民総玉砕」と呼ばれた沖縄戦が始まる前に、知事や県の幹部は適当な

口実を作って東京へ逃げてしまいました。

 

 

 更に、石井虎雄司令官が残した沖縄防備体制についての司令に

次のような一文がありました。

 

 

琉球の人間は琉球国王への忠誠はあったが天皇への忠誠心は弱いから、

 監視の対象にしなければならない。」

 

 

 元より沖縄県は琉球王国という独立した国家でしたが、慶長14年(1609年)に

薩摩藩に破れた時に薩摩藩に従属する立場になり、そして明治12年(1879年)の

廃藩置県によって日本の国内化された歴史があります。

そのため沖縄県民に対する日本軍の不信感は大きく、本土の政府はスパイ養成機関として

有名な陸軍中野学校は約10名を国士隊(スパイ)として沖縄に送り込み、

住民の監視に当たらせました。

そればかりか、米軍の捕虜となった県民35名を日本軍が米軍から奪還して

海岸で射殺した事件もありました。

 

 

 これが戦争の現実です、軍は決して、国民を守りません。

日本軍に対する恐怖を持つ沖縄県民でしたが、その一方で米軍に対しては

寧ろ好意を持っていました。

その事実として、米軍は民政を担当する非戦闘員の軍政要員5000名を用意しており、

更に住民の食糧として10万人分を準備していました。

しかし、それが一変したのは朝鮮戦争が始まり、米軍による土地の強制的な

取り上げが始まってからでした。

 

 

 その場所は現在、在日米軍基地として今なお沖縄の土地に残っています。

かつて翁長雄志沖縄県知事が「銃剣とブルドーザー」と発言をしました。

現在米軍基地となっている沖縄の土地には元々民家がありましたが、米軍による

土地の強制接収では実際にブルドーザーを用いて次々に民家が潰されていきました。

日本国内にある米軍基地の7割は今、沖縄に集中しています。

その基地は事実、第二次世界大戦の戦利品として今も沖縄を支配しているのです。

沖縄県在日米軍基地 アトリエ-婆娑羅-

 現在の自衛隊法を見てみると、自衛隊法の第三条には、

 

 

「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを

 主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。」

 

 

と書かれていますが、「国民の生命と安全を守る」とは書かれていません。

 

 

 そして第二次世界大戦以降の戦争はどうだったのでしょうか。

ベトナム戦争について、マクナマラ元米国防長官(J.F.ケネディ、ジョンソン大統領の

もとで国防長官を務め、ベトナム戦争の主導的立場であった。)の回想録があります。

ベトナム戦争では320万人の市民が犠牲となり、そのうちの220万人が

枯れ葉剤の影響で亡くなりました。

 500万人が負傷し、米兵も5万8000人が亡くなりました。

マクナマラは、回顧録に「自分たちは間違っていた。同じ誤りを繰り返さないで欲しい」

と書きました。

 

 

 繰り返しとなりますが、第一次世界大戦以前の戦争では死者の95%は軍人でしたが、

第二次世界大戦とそれ以降の戦争では死者の95%が一般市民です。

 

 

 戦争によって国民が守られた歴史はありません、イラク戦争もそうでした。

ここで多くを書くことは出来ませんが、分かりやすいドキュメントとしては

マイケル・ムーア監督の『華氏911』をご覧頂くと良いと思います。

 

 

 日本はこうした悲劇を繰り返さないために、戦争の放棄を

明文化した憲法を持つようになりました。

日本国憲法は鈴木安蔵さんという方を含む日本人の憲法学者たちによって草案が作られ、

それらはかつて政府が戦後掲げた保守色の強い草案をはね退けて

GHQにも影響を与えたものでした。

皮肉なことにも、鈴木さんの故郷である福島県南相馬市は現在、2011年3月11日の

福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染で立ち入りが制限されています。

原発もまた、第二次世界大戦が生み出した人類史上最悪の遺産です。

 

 

 一方、デンマークの学者が戦争絶滅法案というものを考案して発表したことがあります。それは宣戦布告した国王と賛成した国会議員等は、戦争開始から10時間以内に一兵士として

前線に立たなければならない、という内容の法案でした。

このことが逆説的に、戦争は権力を持った者を守るために弱い立場の人たちが

犠牲になってきた歴史を物語っていると言えるでしょう。

 

 

 とても長い記事となりましたが、少しでもお目通しして頂けたら幸いです。

沖縄戦の悲劇は在日米軍基地として今なお続いています。

次回は、在日米軍基地について取り上げていきたいと思います。

最後まで有難うございました。