映画『首相官邸の前で』

 本日は小熊英二監督のドキュメンタリー映画『首相官邸の前で

を視聴して参りまして、作品についてレビュー記事を立てたいと思います。

先日は3.11後の「報道の自由について諸々呟きましたが、

特定秘密保護法の話題が持ち上がる以前、それも原発事故の起きた2011年から

既に隠されていた真実があり、その中で戦い希望を示した人々の姿がありました。

映画『首相官邸の前で』 アトリエ-婆娑羅-

 数百人から始まったデモが1年の間に20万人規模にまで膨れ上がって

官邸前を取り囲み、市民と政治家との対話が実現した事がとても印象的で、

とても励まされました。

 

 デモ活動と聞いて中には「怖い」「過激」という印象を持つ人もいるかも知れません。

或いは道を塞いで傍迷惑だと思う人もいるでしょう。

僕自身も過去に数回デモ活動に参加したことがありまして、

一つは2014年夏の特定秘密保護法の閣議決定に対するデモ活動で、

たまたま通りがかったデモ隊の列にこっそり加わる形で参加しました。

そういう経験とも重ねてみると、デモ活動とは「言いたいことをはっきりと示す」

ことだと言えます。

民主主義国家の一員として発言し、為政者の政策によって苦しむ人が出ないように

対話をする第一歩として、そして僕たち国民に対して問題提起をするための

大切な活動だと改めて確認することができました。

 

 かつて「(デモは)テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と発言した

トンデモない政治家がいましたが、デモの本質はテロでも復讐でもありません。

 

 福島からデモに参加した女性たちがいて、その中には自殺まで覚悟して

今日まで生きてきた人もいます。

自分たちと同じ苦しみを他の人々にさせたくない、被曝する子供たちがこれ以上

現れて欲しくない、もう誰も故郷を失って欲しくない、だからこそ、原発をやめさせたい。

切実な思いに揺れて無関心を破り、同じ心で集った人々は皆、

僕らと同じ普通の人間でした。

この人々とこの思いに、テロや復讐がどこにあるのでしょうか。

 

 警察とのもみ合いで一時は停滞を見せたデモでしたが、その志に共感する人々が現れ、

やがて20万人規模にまで上りましたが、この活動には秩序がありました。

毎週金曜の夕方から夜にかけてのデモには18時~20時までというルールを

自主的に設け、警察が囲む場所からはみ出さないように注意を払いながら行進。

ついに実現した市民対官僚の対話でもデータを用いながら誓約書が手渡されました。

 

 これは2012年末の野田政権下での出来事で、首相交代によって原発削減策が

白紙に戻されてしまいましたが、誠実で対話的な態度によって政治が

動いたことには感動しましたし、日本の民主主義もまだまだ死んでいなかったと、

希望を与えてくれました。

 

 僕たちの日本は民主主義国家と名乗ることができますが、

そう名乗ることが出来るのは、国民がこうした権利を行使している時があるからこそ。

動物の進化で使わない部位が退化するように、国の中でも使わない権利は

どんどん失われていきます。

空気のようなこの権利を僕たちが受けるために、どれだけ多くの先人たちが

血涙を流したか、それだけ貴重で、今も多くの国々が求めている権利を軽んじているのは、

(あまり好きな言い回しではないですが)「日本人として」恥ずかしいことだと思います。

政治家が恐ろしい政策を強行することやメディアが自粛することは大問題ですが、

5割近い国民が選挙権を放棄して何も思わない、何も言わない事態の方が

よっぽど恐ろしいです。

 

 騒々しい娯楽と果てない経済成長への欲望の中、「経済」という言葉が

全ての理由になっているようです。

主語のない「経済」が何を指し示すか、考えただけでも恐ろしいことです。

経済という言葉を作ったのは人間で、その意味は「国を治め、民を救う」で、

主役は結局、僕たち人間で、人間ならば誰一人として例外はいません。

 

「私たちは微力ではあるけれど、無力ではない」

 

 囁かな覚悟が日本を大きく動かしたことを、僕たちは忘れてはいけません。

デモに限らず、僕たちそれぞれの立場で出来ることを今一度考えていきたいです。