退屈を持て余して昼寝をして、気付けば日が沈んでいたり、杞憂が過ぎて一人で悩んで、
本当の事を知った時には「あぁ馬鹿みたいだ」と胸をなで下ろしたり。
我が身を振り返ってみれば、こんなふうに時間を無駄にしてしまうことがとても多いです。
僕が無駄にした時間の内に何億人の人が自分の仕事をしていたか、
水や食料の足りない国ではどれだけ多くの子供たちが苦しんだか、
どれだけ多くの人々が辱めに耐えながら圧政に抗っていたか。
それらはどこか遠くの国の事で、日本は退屈だ、日本は平和だ、
そんな風に思ってしまう事もあります。
「君が「幸せ」と言った諦めたような日常も君の隣の家では
誰かが手首を切って泣いているんだよ」
「それでも世界が続くなら」というロックバンドを最近知りました。
僕が音楽鑑賞を始めたきっかけはたまたま中古のCDショップで
アジアン・カンフー・ジェネレーションのベスト盤を手に取った時で、
アジカンのファンとして目覚めていく過程で彼らが尊敬するバンドに
ブラッドサースティーブッチャーズがいることを知りました。
更にブッチャーズの影響を受けたバンドの一つに、それでも世界が続くならが
あったことを知って音源を手に取り始めたという、遡ればこんな出会いでした。
それでも世界が続くならは、2013年のメジャーデビューから僅か二年間で
三枚のフルアルバムと一枚のミニアルバム、一枚のシングルを発表し、
そして2015年、突然にメジャーからの引退を表明。
現在はインディーズとして活動しているという、激しい経歴のあるバンドです。
このような経歴の理由には恐らく、メジャーシーンでの彼らは他のバンドよりも
明らかに異質な存在であったから、
或いはそもそもレーベルに所属しながら活動できるような
バンドではなかったからだとも思いました。
自己嫌悪と諦めに満ちた歌詞、危うげなメロディ、
濁流の如く轟くノイズギター、喉を潰さんばかりに叫ぶボーカル。
「アーティストの為でも企業の為でもない」「自殺的」というコピーの通り、
バンドの存続や音楽家としての野望をまるで感じさせない、
燃え尽きる覚悟で叫び伝える姿だけがありました。
メンバーにはいじめやDV、片親、引きこもりといった過去があって、僕らが思う「普通」とは掛け離れた暗闇を生きていました。
笑うことや泣くこと、誰かを信じることよりも自分を傷付けたい。
全てを否定して、自分を否定して、やっと生きられる。
僕たちの言う「当たり前」が欲しくて、何度も諦めて、
それでも生き続けなければいけない。
言葉を失い、胸が痛みます。
儚いメロディからは届かなくても諦められない希望を、轟々としたノイズギターからは
自虐と存在証明を求めてリストカットをした時の痛みを感じます。
虚空、諦め、怒り、悲しみ、言葉ではどうしても伝えられません。
ボーカルの篠塚将行さんが言うように、バンドの曲は全てメンバーにとっての
「日記」のようなノンフィクションが殆ど。
MVを監督する藤井健さんはメンバーとは友人関係で、その内容もまた
メンバー自身の経験を題材にしたものが多いです。
いじめ、虐待、自殺、倦怠感、とても痛ましい内容に目を覆ってしまい、
MVを冷静に鑑賞できた事はありませんでした。
想像を絶する現実があって、その中で我慢して、諦めながら生きている人がいる。
それを知らないまま僕は生きてきて、誰かの存在を無視して、
自分の理想を描き続けていたのか。
このバンドの曲を聴いた時、しばらく絵が描けなくなってしまいました、
罪悪感から目を背ける事ができませんでした。
現実を知ることは時に苦しみを伴いますが、現実を伝える事は
それ以上に苦しいことだと思います。
表現者としての葛藤に苦しみながらも、それでも世界が続くならは
苦しみの中で生きている人々の声を受け止めて、今も叫び歌う。
苦しむ人々を慰めながら、無知な僕らを傷つけながら、存在を歌う。
僕は平凡で無名な一人の人間で、誰かに伝えたいと言いながらも
独り言のように絵を描いているだけかも知れません。
ですが例え僕が何者であったとしても、表現を行う限り責任が付いて回ります。
火に油を注いだり、干ばつ地帯に日照りをもたらしたり、
何かを押し付けて誰かを傷つけたり、そんな事をしたくありません。
このバンドとの出会いは僕に多くを学ばせてくれました。
「ファンとして」とは言いづらいですが、これからも応援していきたいです。
誰かと傷つけ合わずに笑いたいと願うのは、彼らも僕も同じことですから。
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