作品解説

-Puddle / 土葬-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年2月9日


 人はお墓へはいります、
  暗いさみしいあの墓へ。

 そしていい子は翅が生え、
 天使になって飛べるのよ。

          金子みすゞ『繭と墓』


 幼い日の夏休み、親からはぐれた飛べない
子スズメを拾いました。小鳥の飼い方なんて
微塵も知りませんでしたが、牛乳で湿らせた
パンや小さく砕いた豆を食べさせたりしまし
た。食べ物を見せると飛べない翼をバタつか
せ、黄色い嘴を広げてピイピイとねだる姿を
今でも覚えています。スッピーという名前を
付けて、小さい手の中に大事に包んで友達に
自慢して、小さな公園に浮かぶ夕陽を一緒に
眺めました。黒い瞳をいたいけに、キラキラ
と輝かせながら。小さな小箱のベッドにスッ
ピーを寝かしつけ、来る明日の囀ずりを待つ
ように私も眠りました。


 二晩の命でした。夕陽を眺めた日の翌朝、
スッピーは冷たく固まっていました。「死ん
じゃった」と、枕に横たえ目覚めたばかりの
私に母は悲しげにそう告げました。飛び起き

て小箱を覗くと、眠ったまま目覚めないスッ
ピーが。涙がどっと溢れて、布団にしがみつ
いて咽いだ。か細い声を絞って「埋めてあげ
て」と母に頼みました。大切な友達の埋葬を
見届けられなかった、怖かった、胸を潰され
る想いだった。その日は灰色の曇天でした。
肌寒い、冷たい夏でした。その晩、母は私を
慰めるように鶏の唐揚げを作ってくれました。
嬉しかった、けれど喉を通らなかった。スズ
メとニワトリは違うトリなのに、幼い目にそ
んな区別はなかった。初めて喪いを、命の儚
さを知った。美味しい美味しいと肉を食べる
のに、同じトリが死んでこんなに悲しむなん
て、ずるい子だ。そんな私もいつか死んでし
まうんだ。そう思うと、他に何も見えなくな
った。生きる限り殺め続ける残酷な定めを死
ぬほど恨んだ。


 晴れ間がのぞいて、悲しみも薄らいだ頃、
空を見上げるとスッピーが振り向いて笑って
いるような気がしました。足元にはスッピー
にそっくりな全然違うスズメ達が戯れて、や
がて飛び去っていきました。何故かそれが嬉
しかった。スッピーは天高い神様の元でずっ
と、私の側にいてくれていたんだ。ただ、そ
んな気がしました。

 それから二十年近い時が流れました。三十
代に近付き、孤独や失望もそれなりに味わっ
て来ました。乾き始めた心を、それでも壊さ
ないために作品を描き続けていました。ある
晩、バイクに跨がり夜風に当たりながら組曲
『繭の墓』の構想を練っていると、対向車線
に大きな毛玉が踞っていました。目的地へ辿
り着き、往路をを遡ると案の定、毛玉は相変
わらず踞っていました。体長一メートルほど
のニホンジカで、道路の真ん中でとぐろを巻
いていました。お腹が僅かに膨らみ、眠って
いるようでした。私はシカを揺すり、クラク
ションを鳴らして起こそうと、安全な場所へ
逃がそうと試みました。


 ぬっくとシカが起き上がり、すぐにばたり
と倒れてしまいました。シカの前に駆け寄っ
てみると、右の前足から血が滴り、ぽっきり
と折れていました。皮が裂け、ザクロ色の肉
に包まれた骨を露わにしながら皮一枚で繋が
っていた。前足だけではなく右の後ろ足も同
じく無惨な有様でした。シカは今にも死にか
けていました。


 痛ましさに戦きながら、私と同じくシカが
気掛かりで居合わせた通行人の男性と軽トラ

ックの男性で話し合い、警察へ通報すること
にしました。警察が駆け付けるまで私たちが
世話話をしている間もシカは時々立ち上がり、
ばたりと倒れる。「もう動くな、寝てた方が
楽だぞ。」と、通じもしない声掛けをしなが
ら私はシカの横に付きした。外気温は十度、
寒さのためか恐怖や痛みのためか、シカは震
えていました。人間の慰めが通じるのか分か
らなかったけれど、私は震えるシカの背中を
さすり続けました。


「怖かったなぁ、無理もないよな。こんな暗
 くて寒い所で一人ぼっちだもんな。もう少
 し待てば、助けが来るからね。」


 無責任にこう口走ったのを、今も後悔して
います。


 通報から三十分後、ミニパトが到着して三
人の警察官が現れ、通報したトラックの男性
は警察官に状況を説明し、近くにあった電気
線の場所へ案内しました。恐らくこれが事の
元凶で、感電した時にどこか鋭い場所で強打
して、ぽっきり折れてしまったらしい。 警
察官は口頭の状況説明と現場写真を用いてし

きりにデスクとやり取りしていました。特定
種でなければ警察は対応できず、その他につ
いては市区町村役所か猟友会に任せる他はな
いという結論でした。結局シカを道路脇の安
全な場所に寄せて回復を待つ他なかった、そ
んな見込みもないのは火を見るよりも明らか。
規制線をシカの首元に引っ掛けて道路脇に引
っ張ろうとすると案の定、立ち上がって逃げ
出そうとしました。ばったりへたり込む、足
の裂け目からは以前に増して血が滴り落ち、
欠けた肉片も座り込んでいた場所に落ちてい
た。


 何とか警察がシカを脇に寄せると、私たち
は沈痛な面持ちでシカを見つめました。既に
シカは虫の息。警察として出来るのはここま
でで、後は死体として発見されたのを処理す
る以外に対応は出来ないと、最後にそう説明
してくれました。


 皆が去っても、私はその場を離れられませ
んでした。冷静に考えれば誰にでも分かる結
末でした、それが野生の掟、人の触れざる世
界の掟。偽善を振りかざして、余計にシカを
苦しめた罪悪感で一杯でした。彼ら自然界の
住民にはありふれた悲劇、それを人間の手で

どうにかしようと思うなら、とんだ傲慢だ。
分かり切った事、そんな事にいちいち胸を痛
めるなんて、手前勝手。


 涙が止まらなかった。きれいにまつ毛の生
え揃った麗らかな瞳に穢れはなかった。ただ
運が悪かった。息も絶え絶えで、それでも瞳
だけはきらきらと輝いていた。こんな綺麗な
目をした君が罪の一つも犯すはずがない。明
日には翅が生えて、天使になって飛べるんだ。
冷たい夜の寂しさも、耐えがたい痛みも、天
国で癒されて、美味しい物を沢山食べて、高
い所から仲間たちを見守ることも出来るんだ。
そう祈るしかなかった、謝るしかなかった。
冷たい頬をひと撫でし、私はその場を立ち去
りました。


 その翌日、シカの横たわっていた林道を訪
れましたが、そこには何も残っていませんで
した。アスファルトに薄黒い血の痕が残って
いるだけでした。黙祷を一つ捧げ、場所を後
にしました。


 神は人間に全てを名付け、支配する権利を
認めました。それが食肉が許される理由、或

いはそうせざるを得ない人間の悲しき宿命の
ように今は思えました。命を重んじながら命
を奪う矛盾を知ったのは幼い夏の日、スッピ
ーとの出会いでした。その時はまだ、そんな
重すぎる罪との向き合いも償いも分からずた
だ、祈るばかりでした。そして先方出会った、
あの可哀想なシカに対してもそうでした。助
けようとしたそれが、大きな過ちでした。分
かりきった結論を先伸ばして、誰よりもシカ
を苦しめたのは私でした。「汝、神の如く」
と囁く蛇に騙されました。


 だから、せめて祈りを。痛む心を、寄り添
う優しさを保てるように。自由に生き、互い
にそれを喜べる人生を、私は願いたい。人生
を彼らと共に、死者は今も聖人と天使と共に。