私は今、知的障害のある方のグループホー
ムの世話人をしていますが、学生時代にもア
ルバイトとして障がい者のグループホームで
の身辺介助や泊り勤務、余暇の外出や実家へ
の送迎のヘルパーをしていました。私がこの
道で働き続けるきっかけの一つに、ある人の
死がありました。
2016年3月6日の朝、私はダウン症の
利用者のTさん兄弟の実家への送迎のために
名古屋市某区内のグループホームへ向かいま
した。ところがグループホームの駐車場に、
職員さんとほか数名がいて、警察車両も停ま
っていました。そのグループホームには、車
のタイヤに釘を刺してパンクさせるイタズラ
をするというYさんがいてもしやその現場な
のではと、私も暫く立ち止まって眺めていま
した。すると職員さんが私の元にゆっくり歩
み寄り、こう告げました。
「今朝、突然にYくんが亡くなっていた」
何も言葉を返せませんでした。悲しさも何
も感じなくて、胸にぽっかりと穴が空いたよ
うでした。玄関の前で立ち止まって、体が動
かなかった。遺体は既に検死場に運ばれ、ホ
ームにはありませんでした。気持ちを整理で
きなくても、私はただ仕事をこなすほかなか
った。
相変わらずTさん兄弟は寡黙ですが、時々
見せる笑顔はその日も素敵でした。彼らのた
めに優先席を譲ってくれたおばあさんがいて、
私に対しても「座ってください、一緒の方が
心配しないでしょ」と声を掛けてくれました。
私は都会の人混みも満員電車も嫌いです。俯
いて、手元の電子機器ばかりを撫で回す姿に
人間を見いだせないから。けれどその日は、
とても温かかった。楽しげに笑う人たちも見
ていると嬉しくて、羨ましくもなりました。
Tさん兄弟を実家へ送ったその晩、Yさん
の仮通夜へ向かいました。その時初めて、Y
さんはいなくなってしまったと、実感しまし
た。眠ったまま帰らぬ人となって、木棺の中
で眠る姿はその日の朝と変わらなかったそう
です。原因不明の循環器不全で、本当に誰も
予期しなかった最期でした。
Yさんはその日の前の年、立て続けにご両
親を亡くし、独り身になったところをホーム
に引き取られ、ホームの「利用者」ではなく、
本当の意味で家族になったばかりでした。ホ
ームに移り住んでからも彼は、ご両親がいた
時と同じように振る舞いました。自閉症で潔
癖症で、ホームのお風呂や流し台の排水口に
溜まったゴミを取って捨てたり、外ではゴミ
拾いもしていました。きっと、そうするとご
両親が褒めてくれたのでしょう。ご両親を亡
くしてなお、親孝行な人でした。彼とは顔見
知りとしての関係の方が長く、私が直接介助
に関わったのはホームに移り住んでから僅か
5回程度でした。動物園で一緒にボードを漕
いだこと、銭湯が大好きで空耳騒ぎで周りの
お客さんを驚かせたこと、トンカツが好きで
私の分までおねだりしてきたこと。早歩きで
付いて行くのも大変だったことも、甲高い大
きな声を聞くことも、もう戻らない。もっと
よく知り合いたかった、もっと一緒に笑いた
かった、もっと一緒に・・・。木棺を前にし
て、涙を留めることができませんでした。
彼が亡くなる前日、日課のお掃除もそっち
のけで空ばかりを眺めていたと聞きました。
普段は大きな主張もないのに、その日に限っ
ては「ピザ食べたい」とずっとねだっていま
した。彼の誕生日が近く、誕生日会にはピザ
を食べるのが恒例で待ちきれなかったのでし
ょう。そしてMさんというダウン症の女性の
前で、ずっと吹き出すように笑いかけていま
した。常に眉間にシワを寄せて、表情をあま
り出さない彼がどうして。彼が笑うと、周り
も笑いました。答えを聞くことは叶いません
が、彼はきっと悟っていたのかも知れません。
だから、やり残したことを全部やりたかった。
好きなものを食べて、好きな人の前で笑って、
それでやっと、旅立つ準備が出来たのでしょ
う。人生の殆どを共に過ごしたご両親に対す
る想いが、あまりにも強かったのだと思いま
す。ピザ、最期までに食べさせてあげられな
くてごめんね。
初めに彼が亡くなったのに気付いたのはM
さんでした。朝ごはんの時間にも起きなくて、
彼を起こしに行った時に気付きました。「起
こしに行ったけど、眠ったまま亡くなってい
たの。」そう私に教えてくれました。「Yく
ん、冷たくなったね。」そう言いながらずっ
と、彼の頬を撫でていました。
その翌日は告別式で、全ての職員と利用者
さんが参列しました。Tさん兄弟もそこにい
て相変わらず物静かな顔でしたが、その目に
は涙を浮かべていました。その葬儀会館はと
ても自由で、式後の会食には彼の木棺も会席
につけて下さりました。彼との最期の食事は、
思い出話で賑わいました。車をパンクさせた
こと、意図せず女性にセクハラ発言をしたこ
と、多くの知られざる伝説を彼は残していま
した。彼がいなくなって初めて気付いたこと、
後悔したこともとても多かったですが、短い
その時間は、私たちにとっての宝物になりま
した。
Yさんがいなくなった二日間は雨が降りま
した。彼の大好きな天気でした。水溜まりを
見付けたら一つ残らず踏んで歩いていました
それは、とても良い旅立ちです。けれど、傘
を忘れないでね。風邪を引いて、お父さんと
お母さんに迷惑かけたらダメだよ。
あれから1年、彼とはどう向き合うべきか、
なかなか言葉に表せないものがあります。た
だ思った程に記憶は長く繋がらず、Yさんの
顔を忘れかけてしまったことがありました。
「忘れない」と言葉にするのは容易くても、
覚え続けるためには何かをしなければいけな
い。そこで私が絵に描き留めようと思い立っ
たのは必然かも知れません。なけなしの思い
出の中から、それも一番、できる限りの美し
さで。Yさんと関わったのはせいぜい5日間
くらいで、思い出を語るには余りにも時間が
足りなかったからです。それでも完全な創作
物語として偽るよりもあるがままを模ればよ
い、今もそう思います。
「お葬式みたいな絵」と自嘲することがあ
りますが、本作を描き続けていた最中、あの
日から二度目の春に、再びお別れが訪れまし
た。Yさんが両親を亡くしてから身を寄せた
ホームの住人Mさん、そう、Yさんの死を誰
よりも悲しみ、慈しんだ彼女が3月23日に
亡くなりました。
彼女は私がホームの入浴介助のアルバイト
に入り始めた頃からそこにいて、多分4年間
くらいは顔見知りの関係でした。顔と名前を
すぐ覚えてくれて、私がグループホーム内の
押し入れの鍵を持ち帰ってしまうおっちょこ
ちょいをしたことさえも覚えていて、笑いな
がら私に話してくれました。
Yさんのお別れ会ではお棺の中の白粉を塗
ったYくんの頬を撫でて「Yくん、冷たくな
ったね」と寂しげに呟いたのを今も覚えてい
ます。Yさんが元気だった頃はケンカばかり
だったのに、本当はこんなに優しいんだ。
それから1年、まるで後を追うかのようで
した。彼女は亡くなる半年前から余命宣告を
受けていて、体にどんどん水が溜まって全身
がむくれ、遂には杖を突きながら歩くように
なりました。歩くのも大変で、転んでしまえ
ばもう起き上がれなくなるかも知れない程の
重体でした。私がそのことを知ったのは彼女
が亡くなった翌週の火曜日、入浴介助後に職
員さんに尋ねた時でした。私が声を掛けた職
員さんは過去に旦那さんを末期ガンで亡くし
ていて、末期の時は息さえままならない状態
だったと言います。
私はその先週にMさんと会いましたが、そ
の時も既に末期的でした。けれど、その時の
彼女は笑っていました。本当に何時も通りで、
大好きなジグソーパズルを組み立てながら。
確か、その時だったかな、私が押し入れの鍵
を持ち帰った日の事を笑いながら話したのは
。その前の日は和装の折り紙で紙風船を作っ
てもいたかな。赤と茶の淡い模様が綺麗で、
職員さんや同室の利用者さんにもおすそ分け
して、皆喜んでいたっけ。
本作はYさんとの初めて二人で行ったお出
掛けを思い出しながら描いていました。東山
動物園で観覧車に乗って名古屋駅方面を指差
してはしゃいだり、動物にはあまり関心はな
くてもペダル式のボートには気に入って、全
速力で漕いだりもしました。彼は何が一番好
きだったか今でも分かりませんけど、楽しそ
うに過ごしてくれて嬉しかったです。
ステンドグラスを意識した挑戦的な構図で
したが、Mさんが亡くなったことを知った後
には何故か、パズルの断片か貼り絵のように
見える時があります。奇遇としか言えません
けど、忘れられない一作となりました。戻ら
ない春の二人分の思い出が、この中に宿って
いるような気がして、どこか寂しげだけど、
少し嬉しいかな。
Yさん、Mさん、どうか安らかに。来世は
ないかも知れないけど、また何処かで会えた
、そんな気がしただけでも嬉しいよ。