作品解説

-One Summer's Day / 餞の唄-

 

2016年11月20日

-One Summer's Day-(線画)

 本作は"-Forever Blossom / 約束の場所-"
という作品の制作中に浮かび上がった派生作
品と言えます。両作ともに僕自身が目の当た
りにした死を題材にした作品ですが、前作は
やがて終わりを迎える命の永遠を願う、別れ
逝く者の視点から描かれたのに対し、本作は
その死を見届ける立場、看取り人としての視
点で描かれています。


 後ろの十字架にかけられた赤い布は「聖骸
布」と呼ばれ、十字架の上で死したイエスが
まとっていた衣の一部だといいます。例えば
仏教では、人間の生きる苦しみとは煩悩にあ
ると説きますが、キリスト教の文献には苦し
みの意義を説く記述がないといいます。(一
方、仏教では神という言葉は一切使われてお
らず、神という言葉が誤解されたり悪用され
るのを避けるためという意図も考えられたそ
うです。)おのが身をもって人類の苦しみを
全て受け止め、十字架の上で死したイエスの
姿そのものが苦しみを体現したのでした。そ
してガラサの前にある大きな卵は、不動の存
在として死を暗示させるのと同時に、新たな
命の誕生を示唆するものでもあります。


 生と死、苦しみに始まって苦しみに終わる

僕たちは、そこで何を見て、何を願うのでし
ょうか。一言に言えることは、何もないと思
います。滑稽な喜劇とは対極にある悲劇には
、言葉にならない神秘性を感じるのはきっと
、そのせいなのかも知れません。ここで山頂
に立てられた十字架は、僕の今日までの記憶
の中で忘れることが出来ない死の記憶の象徴
として描きました。


 この作品は今から13年ほど前の記憶が元
となっています。針葉樹の木の下で子スズメ
を拾って、その子は一日と二晩というとても
短い命を全うしました。幼心にも小さな命を
慈しみ、あまりにも儚く、その命は終わって
しまいました。お墓に埋めることさえ自分で
は出来なくて、布団に潜り込んで泣いていま
した。

 そうだ、これから先、僕も誰かも皆、死ん
でしまうんだ。それでも僕たちは命を食べて
、夜には寝て、朝には起きないといけない。
残酷な日々を過ごすうちに、どこかでスズメ
を見かけると、どうしてかあの子のことを思
い出してしまう。全く違う鳥なのに、面影を
追うように見つめていました。



 誰かがいなくなって、それでも日常は回っ
ていきます。同じような季節、同じような空
模様、どれだけ同じような日に見えても、同
じ日なんてものは、還ってきません。あの時
優しくしてくれた友達も、今日には僕に呆れ
て話さえ聞いてくれないかも知れない。


 あれもこれも、僕たちは見ないふりをして
過ごしていたのかも知れない。それに気付く
のは、ひょっとしたら無くした時なのかも知
れません。無くした時、初めて愛しくなって
、気付けばどこにでも、そんな風景が有り触
れているのに気付く。パッチリと花を咲かせ
たアサガオの微笑みも、そんな姿に憧れて頑
張って開こうとする蕾も、澄んだ空に浮かぶ
雲も、夕焼けも。飛べない羽根で羽ばたいた
、短い命を全うしたあの子スズメは、初めて
僕に、愛を教えてくれました。形のない大切
なもの、本当は言葉になんてできはしません
。成功した命、失敗した命、そんなものはど
こにも存在しません。


 イエスは十字架に磔にされて死に、その時
に流れた血は罪人たちに奇跡を起こしたと言
います。残酷な運命の十字架とともに生きた
あの子もまた、僕にとっての小さな奇跡でし

た。あの子のいない明日の幸せに気付けたの
は、命を掛けてあの子が教えてくれたからだ
ったと思う。けれど今も、出会った命が死ん
で行くのを見るのは怖いです。だから泣いて
、時々一人になって、何時かは打ち明け事の
ように話せるようになって、苦しみの運命さ
え抱き締めていけるのだと思います。




 何を伝えたいのか、言葉を尽くしてもそれ
は出来ないと思う。それでも明日には、例え
悲しくて死にたいような昨日があったとして
も、幸せがもっとそばに寄り添ってくれるこ
とを願っています。それはさながら、十字架
の上で死したイエスが蘇り、昇天したように
。そんな願いが、この作品をご覧になってい
るあなたに少しでも伝われば、それだけで嬉
しいです。